イケフェス大阪2017 泉布観その1 ベランダ


イケフェス2017泉布観
その内部を見せてもらいました。
「泉布」は貨幣の古い呼び名、
「観」はのこと。
名前は当初ありませんでしたが、
完成翌年に明治天皇
大阪に行幸された折に
命名されたものです。

イケフェス大阪とは?
 生きた建築ミュージアム
 フェスティバル大阪が正式名称。
2013年から始まった取り組みで、
初年度は大阪市の主導でしたが、
その後建物オーナーや民間企業、
大学等との協力連携で運営されています。

明治天皇は3度訪れられたとか、
皇族や外国の要人を
数多く迎えています。



国道一号線を正面に観ず、
旧淀川である大川に
対峙しています。
設計は幕末から明治初期まで
日本に滞在した、
いわゆる「お雇い外国人
トーマス・ウォートルスさん。

正面中央に車止め、
そして上部はベランダ…
建物周辺をぐるりと囲む、
ベランダ・コロニアル様式です。
この建物様式は
イギリス本土にはなく、
ヨーロッパの国々が、
東南アジア・インド、アメリカを
植民地として進出したとき、
気候風土に合わせた住宅様式です。

ベランダを支えているのは、
屋根から伸びたトスカナ式柱
古代ローマ建築の柱の一つで、
柱身に溝彫りを持たない簡素な柱。

花崗岩のトスカナ式柱に、
緑がかった青のフランス窓
床面まである両開きは、
出入りができるようになっていて、
扉の役目も果たします。

ウォートルスは、
1842年生まれアイルランド出身。
当時アイルランドは
イギリス領だったこともあり、
よく英国人と紹介されていますが、
正確には英国系アイルランド人
どこで建築設計の勉強をしたのか、
あまり分かっていませんが、
若くして英国王立の
香港造幣局建設に関わり、
1864年頃に鹿児島に来日しています。

ウォートルスは、
都市建設に能力を
発揮できる人だったそうです。


「浪花新景 川崎金吹場」

1871年 創業間もない頃の造幣局を
対岸から描いたもので、
大川には外輪船がみられます。
往来の中心は川だったことが、
泉布観の玄関の位置の理由です。

1926年(大正15)ごろ、
この頃は大川に面した
東側正面に門がみてとれます。

2階ベランダより桜宮を望む。
大川の桜並木と対岸の
都市化・工業化が進んだ
市街の様子です。

いずれも泉布観パンフレット
『大阪市立北区実科女学校創立十周年記念』より。

1962年に保存修理工事が
行われていますが、
建築当初の姿に戻すべきでは、
との意見もあったそうです。

それは明治中期の改造。
屋根の軒を出して、
雨の多い日本の気候に
適するように改造されたそうです。
一般財団法人大阪建築技術協会の
「明治16年に
 屋根軒先の軒高欄を撤去し、
 軒廻りを軒出の深い
 現状の形式に変更した。
 明治26年には北白川宮の
 陸軍第四師団長就任に伴い、
 官舎として整備を行った。

 その際に、 背面を一間通拡張し、
 車寄の奥行を約半間延長、
 北側ベランダの石柱間隔を大きくし、
 背面ベランダ柱間の
 アーチ型の欄間を撤去した。…」

ベランダ・コロニアル…
日本向きではありませんでした。
初期の様式ですが、
やはり雨の多い日本には
それなりの順応がなされた、
ということです。
設計者ウォートルスに戻ります。
彼は建築家と言わなかったそうで、
自らを測量士や監督としました。

当時は東京奠都(てんと)間もない頃、
経済の基盤は貨幣を重要とすること。
造幣局が大阪に置かれたのは、
大阪の経済としての重要性を、
物語るものでした。
経済中心地のプロデューサーが、
ウォートルスさんだったのだと…

「泉布観」
(旧大阪造幣寮応接所)
竣工年:1871年(明治4)
設計 :トーマス・J・ウォートルス
構造 :煉瓦造一部石造の二階建て
【国 重要文化財】

イケフェス2017プログラム
ガイドツアー【事前申込 当選】
日時=10/27(金) ①10時〜
定員=各30名 参加費=無料

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