大坂城めぐり「乾櫓」
西の丸の西北に建つ「乾櫓(いぬいやぐら)」。
「戌亥=乾」とは西北を意味します。
徳川大阪城の櫓にはこの他にも
方角を示すものがあと三棟あったそうです。
玉造口付近にあった
「艮櫓」(うしとらやぐら)(北東)と
「巽櫓」(たつみやぐら)(東南)は
明治維新の大火で焼失。
乾櫓の南側にあった
「坤櫓」(ひつじさるやぐら)は、
第二次世界大戦の空襲で失われています。
1956年(昭和31)から
1959年にかけて行われた解体修理の時に、
大棟の輪違瓦(わちがいがわら)に、
「元和六年申ノ九月吉日 ふかくさ作十郎」との
箆(へら)書きが見つかり、
1620年(元和6)の創建が判明しています。
「千貫櫓」とならんで今に伝わる
大坂城の城郭建築のなかでも
最古のものになります。
L字形をしているのは
西ノ丸庭園からだとよく分かりますが、
一階と二階ともに同じ広さになっていて、
構造的にも面白く内部のつくりも、
うまく二棟をあわせたように設えています。
鉄砲狭間=銃眼は外からは、
漆喰で塗り込められていますが16カ所。
石落しは4カ所あり防御万全の櫓です。
再築なった大坂城に徳川家光がはじめて
入城したのは1634年(寛永11)のこと。
大坂の住民に徳川の治世を浸透させるもの、
入城の翌日に、それまで大坂・堺・奈良に
課していた地子(土地税)を永久に
免除する宣言をしたのですが、
あらかじめ有力町民に地子免除決定の合図を、
隅櫓から将軍みずから采配をかざすと
伝えられていたのだそうです。
その櫓とは「乾櫓」のことです。
乾櫓は大手口と京橋口の二つの
入口をのぞむことができ、
西の高麗橋、東北の京街道を
見渡す所に位置にしていて、
いろんな意味でこの櫓は、
徳川の大坂治世の要にあったようです。