大坂城めぐり「豊臣時代の石垣」
















謎の石垣」は現在の天守閣の目の前の
本丸の地下に約7メートル下に眠っている。




















ちょっと大きなマンホールを開けたような、
コンクリートの枠に金属の格子ごし…
ライトアップされてはいるが、
写真でとらえるのはムズカシイ。
豊臣時代の大坂城の石垣遺構の公開は、
実に5年ぶりなんだという。
















見つかったのは1959年(昭和34)のこと、
大阪市と大阪市教育委員会、大阪読売新聞社が、
組織した「大坂城総合学術調査」によるもの。




















大坂城は洪積層の
 固い地盤の上に直接築かれている
という定説の確認のためのボーリング調査、
地下9.3メートルの場所から花崗岩が発見され、
高さ2.3メートルの石垣が確認されました。

火を受けた痕跡も見つかって、
夏の陣によるものか?との
  期待がふくらんだそうです。

















現在の大阪城の石垣と比べると
小ぶりの自然石が目立つ

いわゆる「野面積(のづらづみ)」と
呼ばれるものでしたが、
発見当初は豊臣期の石垣との
断定はなされなかったようです。

その後、
徳川幕府の京都大工頭をしていた
東京の中井家から
豊臣期の「大坂城本丸図」が発見。
詳細の検討の結果から、
発見された石垣が
大坂城本丸「中ノ段帯曲輪」のものであると
  考えられるようになったとのこと。

大阪城の地とは、
豊臣秀吉の築いた石垣と

徳川秀忠の築いた石垣の二つが、
今なお残る稀有な城郭遺構である
        ということ。





















そんな豊臣期の石垣を間近にみることが
できる所が天満橋駅周辺にあります。

大阪ドーンセンター横の石垣」
これは豊臣秀吉の晩年にあたる
1598年(慶長3)に
大阪城の防御強化のために造られた
豊臣時代の大坂城三の丸のもの。
1614年(慶長19)に
大阪冬の陣の講和条件として
徳川家康によって取り壊され、
地中深くに埋もれていたものです。
















こちらは「追手門学院小学校横の石垣」、
1984年に小学校校舎の
建替立替工事時に発見されたもの。
小学校 の地下には発掘されたままの状態で
石垣が保存されているらしい…















日本経済新聞社前の石垣」
こちらは徳川期の大坂城のもので、
1620年(元和6)に
城北の惣堀(そうぼり)に見立てた
旧大和川と淀川との合流点付近の
護岸用石垣なんだそうだが、
植栽が生い茂っていて
状況がよくわからなかったが…
















大坂城といえば太閤さん…でも、
地中深くに眠る石垣は

激動の大阪城の歴史を今に伝えるもの。

もっと身近に体験できる日が来ることを
楽しみにしておきたいと思います。
















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