JOEとYAEのお宅訪問〜新島旧邸を訪ねる


八重の桜」のお陰をもって
母校がちと有名になり誇らしくもあり、
ちょっと気恥ずかしくもあります。
新島襄と八重が過ごした新島旧邸も、
最近は見学希望者殺到で事前予約がいるとか...

同志社大学ホームカミングデーでも
見学コースになっているとのことで、
小雨降りしきるなか“お宅訪問”してきました。

「ヴェランダ・コロニアル」スタイルの建物。
和洋折衷というよりも、真壁造りでもあるし、
内装も和に洋を取り込んだという感じでした。

東、南、西の三面に
バルコニーがめぐらせてある。
襄が居た頃は東面から大文字を臨めたとか...

そしてガラス窓に木製の鎧戸(よろいど)
上部の障子欄間とここにも和と洋が仲良く。

玄関付近はこじんまりとしていました。

ドラマのワンシーンだと
もう少し大きく見えますね。

書斎」は東南角の部屋。
壁一面の書棚は当時の学生の図書室の
役割も果たしていたようで、
襄の性格から
自由な出入りを許していたようです。

こちらは「応接間
18畳ほどの洋間で、
当時の家具がそのまま残っています。
職員室、会議室、大学設立募金室、
そして教室、教会の集会室とまさに
多目的室といった利用がなされた場所です。

隅には化石や鉱石などの棚があります。
実は新島襄は
アーモスト大学の理学コースで、
地質学を学んでいたようです。

「春夏の休暇中は、かなり長期にわたる
徒歩旅行に出かけている。
鉱物採集や各地の見学が目的であった。」
のだとか...
『新島襄ーその時代と生涯』より
 (学校法人同志社 編, 晃洋書房, 1993年)

台所」は床板が敷かれた造り。
カマドも腰高に設置されています。
井戸も室内に設けられています。

流し台が据え付けられています。
しかも八重さんの身長に合わせて設計、
オーダーメイド・システムキッチンです。

白壁にある丸い穴は温風が、
1階応接間の暖炉から送られてくる。

玄関付近にもダクトのが横切っていて、
2階へも送られていました。
セントラル・ヒーティング」が
実現されていたのでした。

1階の洋間を改造して設けられた茶室、
寂中庵(じゃくちゅうあん)

襄の他界後、会津出身の八重が、
洋風の生活から純和風の生活へと
回帰していったことを物語る部屋。

こちらは「洋式トイレ」。
板張りの腰掛式でこのスタイルのは、
日本では初期のものと言われているそうです。

2階は現在は非公開。
写真パネルは「寝室」、
ベッドがみえます。

絵はがきにある「居間」。
右下隅にあるのが
セントラル・ヒーティングの吹き出し口。

母屋につづいて「付属屋」が設えてあります。
ここは両親の隠居所として使われていたようで、
和風の作りになっていて、
おそらく
江戸藩邸にあった住居を再現したのだと...

もともとは華族 高松保実
(たかまつ やすざね)
所有の邸宅の半分を
1875年(明治8)に賃借したもの。
生徒8名で同志社英学校を開校した、
まさに同志社発祥の地です。

その後、
高松邸を購入して自宅を建築したのが、
現在の新島旧邸です。
蒸し暑い京都の夏を
少しでも快適に過ごすために、
床は少し高くして、
風通しを良くする工夫がなされていて、
屋根の庇が深くしているのもそのためです。

同志社英学校で教師を務めた
アメリカン・ボードの宣教師で
医者でもあった W・テイラーの助言をもとに、
京都の大工の仕事で仕上げられたものです。

ちなみに...一般の邸宅の特別公開は、
2014年3月までの予定で行われています。
原則として、
毎週火曜日を除く毎日開館されています。
見学は予約申込制になっていて、
申し込むことができます。
写真は一部 「新島旧邸の絵はがき」より。

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