「KANO」列伝③ 呉明捷
1931年(昭和6) 主将兼エースの4番。
甲子園では初戦の神奈川商工に完封勝利し、
全試合を完投した。
オーバースローの大きな投球フォームは、
「まるで鷲が両翼を広げたよう」
と観衆を驚かせ、
速球、カーブ、
そして「アウドロ」とよばれた
アウトコースのドロップで変幻自在。
「麒麟児」「怪腕」と称されたその人、
「4番 ピッチャー 呉明捷」
(ご・めいしょう)
東京ドームにある野球体育博物館、
特別展示「嘉義農林と映画『KANO』」として
蒲浩明さんの手による「翼伸びの鷹」の
ブロンズ像が3月1日まで観られるそうです。
蒲浩明さんの手による「翼伸びの鷹」の
ブロンズ像が3月1日まで観られるそうです。
腸チフスにかかっため1年遅れて
早稲田大学に進学した。
早大野球部では肩の故障から一塁手に転向、
今度は強打者として東京六大学野球で活躍する。
1936年秋に打率.333で首位打者を獲得。」
通算7本塁打の記録は、
1957年の8本の立教大 長嶋茂雄まで
破られることはなかった金字塔であった。
「翼伸びの鷹」は実はレプリカ、
台湾・嘉義市の黄敏恵市長から
野球体育博物館に寄贈されたものなのです。
ホンモノは『KANO』で当時の凱旋を
再現した市内パレードでも登場した
噴水広場に設置されたものなのです。
1939年に早大を卒業した呉明捷さんは、
プロ野球のスカウトを振りきって、
東京に本社のあった
「台湾拓殖株式会社」に入社された。
社会人野球選手として活躍された記録が残る。
その後も東京暮らしで、終戦後も日本在住。
1983年に日本にて生涯を閉じられた。
生涯日本に帰化することなく、
台湾国籍のままだったと伝わります。
甲子園歴史館に展示された時の
「翼伸びの鷹」像と
「嘉義農林 第17回大会準優勝盾」(複製)
プロ入りしなかったのは、
たぶんケガのせいもあったと思われるが、
職業観が大きかったとも伝わります。
好きでやっている野球で生計を立てる
とは考えておられなかったようです。
「プロ野球という職業が
まだ確立していなかった頃でもある。」
『KANO』での印象的なシーンのひとつ。
呉明捷と幼馴染の阿静(しずか)と
あぜみち を自転車で駆け抜ける…
弱小だったKANOが甲子園を
目指すなんてって笑い話をされていた…
「男なら堂々としなさい!」と
「男なら堂々としなさい!」と
阿静がはっぱをかけたあと、
立ち上がって大きく「翼伸び」する。
今の自転車でなく漕ぎにくい上に、
ガタガタのあぜみちをスピードを出して…
エキストラなしでやったそうです。
今の自転車でなく漕ぎにくい上に、
ガタガタのあぜみちをスピードを出して…
エキストラなしでやったそうです。