竹生島に渡る〜弁財天のお姿と琵琶湖



琵琶湖の北に厳かに浮かぶ竹生島
いってきました。

長浜港からおよそ35分の船旅

(神を) 斎く(いつく)島に由来し、
"いつくしま"が"つくぶしま"と変じ
竹生島になったと言われています。
島全体は一年中、
常緑樹で覆われているのが
当たり前の姿だったのですが…

1970年代の植生調査資料によると、
暖帯のタブノキスダジイが繁茂、
ただ2008年ごろにはカワウの
サギのコロニーへの侵入

激しくなり、あちこちの斜面が
丸裸状態となってしまっていたとか。
カワウの捕獲作戦で植生の繁茂が復活、
島全体が緑に戻されたそうです。

琵琶湖周航の歌」の歌碑がお出迎え、
こちらは4番
瑠璃の花園 珊瑚の宮
 古い伝えの 竹生島 
 仏の御手に いだかれて
 ねむれ乙女子 やすらけく
とあります。

京都大学の前身 第3高等学校
伝わる漕艇行事であった琵琶湖周航、
1918年(大正7)に作られ、
学生から広く全国民の愛唱。
加藤登紀子さんをはじめ、
多くの歌手に歌い継がれた学生歌。

弁才天と竹生島の浅井姫命
習合の竹生島信仰、
竹生島縁起』によると、
開基は奈良時代の基、
平安時代中期には天台学の
修練の場となり、
10世紀中期には天台寺院である
比叡山の末寺としての地位が確立。
西国三十三所観音巡礼
一つとしても信仰を集めています。

竹生島の弁財天は唯一、
”の字をつけ大弁財天

木造 弁才天坐像
 宝厳寺蔵
 長浜市指定文化財 室町時代

頭上に翁面白蛇身の宇賀神
前面に鳥居を配した
宝冠を載せる八臂の姿。
弁才天はインドの仏教の
水神"サラスヴァティー"。
像は銘記によれば、
室町期 弘治3年(1557)、
江州浅井郡河道村の
惣兵衛が奉納したもの。
中世における湖北の信仰
伝えています。
弁才天像
 南北朝時代 絹本着色

竹生島に伝来する3幅の
弁才天像のうち一つ。
八臂の手に宝剣や宝珠、
輪宝などを持ち台に坐す姿、
その下に稲穂の上に
とぐろを巻く宇賀神を配す

眷属である十五童子に
囲まれています。
弁財天像》宝蔵寺蔵

琵琶と撥を持つ姿 二臂弁才天
最もよく知られた弁才天。
なぜ琵琶湖と呼ぶのか?
14世紀の初頭に延暦寺の
学僧 光宗の『溪嵐拾葉集』に
琵琶の形に似たり」と
表記されたことにはじまります。
ただ正確な琵琶湖の全容を
眺めたのでしょうか???
最澄が一乗止観院
(いまの根本中堂)を建立したとき、
大弁才天女が現れ、
私は湖上に浮かぶ霊島に住んで、
比叡山の仏法を守護すると誓った
霊島とは竹生島のこと、
後白河法皇が編集『梁塵秘抄』には、
淡海の湖は海ならず
 天台薬師の池ぞかし
 何ぞの海 常楽我浄の風吹かば
 七宝蓮華の 波ぞ立つ
という一首があり、
天台僧の光宗は修行の中で、
近江の山々を闊歩し、
多くの角度から湖を眺めたかと…
守護神 弁才天を
イメージしていたからこそ、
弁才天の琵琶の形に
見えたのではないかと。
実はイスラエルにキンノールという
立琴の名前を語源とした
"キネレット湖"、別名はガラリヤ
聖書によると、
湖が眼下に見える丘の上で
イエスが熱心に布教活動、
伝説をのちに伝えたとされています。
キリスト教伝道師として活躍した
ウイリアム・メレル・ヴォーリズは、
琵琶湖周辺で"ガラリヤ丸"という
船に乗って布教活動をしたそうで、
ガラリヤ湖に由来した船名。
命を育む真水を満々と湛える湖、
細波の音は楽器の音色と重なり、
洋の東西の湖の信仰に、
楽器が繋がってるのです。

※このブログは「琵琶湖ハンドブック 四訂版」
 第1章 琵琶湖のあらまし 「琵琶湖」という呼称
 を大いに参考にしました。

このブログの人気の投稿

異界との出入り口《春日権現験記絵》

太閤秀吉を辿る vol.11 加藤清正と島津義弘の虎退治

《春日権現験記絵》にみる巫女の姿

唐津くんちのヤマゴヤ

三本目の桃太郎ジーンズ