四天王寺七宮めぐり 六 大江神社


上之宮・小儀・土塔の三宮を
合祀したとされる大江神社
主祭神を豊受大神とし、
相殿神は素盞鳴尊、大己貴命、
少名彦命、欽明天皇とされる。
社頭に掲げる由緒書によると…
「大江の社号は、慶応3年(1867)
 この地が大江岸の続きであるを
 以て時の祀官が斯く
 改称せしなりと云う。」

境内に立つ"夕陽岡" の碑、
夕陽丘とも夕陽ヶ丘とも書くが、
命名は元紀州藩士 伊達宗広という人。
藤原家隆を敬愛していたされる
宗広は明治初期この地に心惹かれ、
「自在庵」を建てて家隆塚の傍で
眠らんとしたとも…
"夕日岡"と名付けたのに由来します。

「あかあかと 日はつれなくて
 秋の風」
芭蕉らの句碑。
残り3面にも句が刻まれていて、
「よる夜中 見ても櫻は
 起きている」
松井三津人、
「網の子の 名にやあらむ
 杜宇(ホトトギス)」

     三津人家父 千李、
「春風の 夜は嵐に
 離れ鳧(けり)」
加藤暁台。

摂津名所図会 浮瀬

元禄年間に大坂を訪れた松尾芭蕉
料亭「浮瀬(うかむせ)」で開いた
句会に因んだもので、
《摂津名所図会》にもその情景が
描かれているのです。
ここから見る夕陽もおそらく
絶景であったでしょう。

"夕陽"で前置きが長くなりました…
大江神社の御祭神の話から、
天王寺北村の産土神
主神に豊受大神を祀って、
稲荷社との同一神とされる
五穀豊穣・食糧保持の神。
神紋は「包み抱き稲

「いつの頃よりか神仏を混淆」
混淆(こんこう)とは、
最近は混交と書かれるもの、
異種のものが入り混じるの意。

四天王寺の北西方にあたり、
毘沙門天を祀り"乾の社"に。
境内には神宮寺もあったようで、
四天王寺東光院神宮寺の別当
その祭礼に当たっていたとか…
明治維新後の神仏分離により、
1865年に"大江"の社名に
改められたそうです。

摂津名所図会》に描かれる
大江神社と奥に見える多宝塔は、
愛染さんで今なお多くの信仰を
集めている愛染堂勝鬘院

神仏習合が進んだ江戸時代の頃は、
神社というよりお寺として
信仰されていたようでして…

摂津名所図会 勝鬘坂毘沙門祭
「明治以前には、
 今大江神社の祭れる社には
 毘沙門天王をまつりて
 乾の社と称し(中略)
 当社は世人勝鬘の毘沙門と称し、
 社前の坂を勝鬘坂とよべり。…」
浪華百事談』より 1805頃

おそらくこの石段を
神輿が上がっていく様子が
描かれているのでしょうね。
「百歳(モモトセ)の階段」、
人生の区切り百歳よりあともう一歩、
百一段の階段なのです。
"百年人生"のルーツかも?

勝鬘坂もいまは天王寺七坂
ひとつ"愛染坂"の名がつきます。

御祭神の話をふたたび…
豊受大神とは伊勢外宮祭神であり、
在地の人々が奉祀した
"マツリ場"であったものが、
時を経て聖徳太子と結びつき、
四天王寺建立時云々の伝承が
生まれたのだろうと想像します。

社殿脇にある鳥居の奥には、
朱塗りの玉垣がみえますが…

狛犬ならぬ狛虎、日本で最初に
毘沙門天が現れたとされる
信貴山朝護孫子寺や鞍馬寺の縁起に、
毘沙門天に援(助)けられたのが、
 寅年、寅日、寅刻だった
」と。
これに因み虎像が境内に置かれ、
毘沙門天の神使は虎なのです。

毘沙門天を祀る堂宇は
失われてないのですが…
虎にまつわる信仰が絶えないとか、
阪神タイガースのメガホンが、
奉納?されていました。

実はこの吽形の狛虎の奉納者は、
タイガースファンの人たちなのです。

百歳の階段の途中にも注連柱、
傍らの石柱には"大江護国神社"と
刻まれていますがバリカーが阻む。

奥に鳥居と社殿がみえるが…

四天王寺七宮のうち
土塔神社上之宮神社
合祀されたのは明治40年、
小儀神社は翌41年ことでした。
安土町にあった男山八幡神社
この時に合わせられたもので、
神仏分離が推し進められたなかで、
神宮寺の色彩が強かった社は、
この地で習合されたのかも…

第二次大戦の戦災で
絵馬堂と神器庫を残し焼失…
時が移りて七宮の気配
薄れているようでした。

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