京都十六社めぐり 新熊野神社


新熊野と書いて
「いまくまの」と読みます。
紀州の古い熊野に対する
京の新しい熊野、
紀州の昔の熊野に対する
京の今の熊野という…
当時の都人の思いが、
その由来となっているそうです。

熊野信仰の盛んな平安時代末期、
創建はときの権力者であった
後白河法皇による創建です。

後白河天皇は1155年即位、
1158年に退位するも
院政を敷かれて、
法住寺に居されました。
鎮守寺に近くの三十三間堂
鎮守社として1160年に
新熊野神社が坐されました。
造営に当たったのは、
命を受けた平清盛・重盛 父子。

法皇は一生のうちに34回の熊野参詣
当時の都人にとって
熊野参詣は大変なこと…
熊野新宮・別宮として創建され、
長らく京の熊野信仰地として
繁栄してきました。

熊野信仰を語ると…
「本地垂迹説に基づく
 神仏習合信仰と浄土信仰が
 一体化した信仰」
???
解説は容易ではありません、
ただ摂関政治が衰え、
武士台頭の動乱期は、
治安が乱れも著しかった、
末法思想と現実の社会情勢が
一致していたので、
不安から逃れるために浄土信仰へ、
盛んに喧伝された時代背景。

シンボルともいえる「影向の大樟

熊野より運ばれて来た
後白河院お手植えの樟と伝わり、
樹齢は900年と推定される巨木。

影向とは神仏が現われるという意味、
「樟大権現」「樟龍弁財天」として
多くの人々に信仰が篤いのです。
権現とは熊野の神の化身、
樟龍弁財天とは弁財天(仏)の
化身という意味なのです。

そして八咫烏の絵馬…
車馬安全とあるのは、
東征の途上、熊野の地に上陸した
神武天皇一行を大和国へと導いた
三本足のカラスで、
熊野では熊野大神の神の使い。
熊野詣の安全を祈願する意…

本殿にも八咫烏の鬼瓦…

時宗の開祖である一遍は、
熊野護符を配りながら
全国を遊行し浄土信仰を広めた。
熊野護符とは烏文字で書かれた
熊野の神札のことで、
後世になり武士の「起請文」に。
熊野の神々の前では、
嘘はつけないということとさます。

熊野の土砂材木にて社域を造成、
社殿を造営し、
那智の浜の青白の小石をまき、
熊野が再現されていました。
京の熊野古道のことは改めて…

「新熊野神社」
京都市東山区今熊野椥ノ森町42

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