太閤秀吉を辿る vol.6 天下茶屋のこと


"天下茶屋"は豊臣秀吉
堺や住吉への途中立ち寄り、
茶の湯を楽しんたところで、
その名も"殿下茶屋"が
なまったものと伝わります。

南海・大阪メトロ堺筋線の
天下茶屋駅より南へ徒歩5〜6分

天下茶屋公園にたどり着く…
東側の道路は"紀州街道"で、
中世以降は大坂湾沿いの
村落を結ぶ街道として整備 。
大坂城と住吉大社を結ぶとして拡幅、
秀吉の住吉大社に参詣もたびたびあり、
賑わいを増したようです。
江戸時代になると紀州藩の参勤交代
が往くようになり、
さらに整備が進んだようです。

明治天皇聖躅の碑石
聖躅(せいちょく)とは足跡を意味し、
明治天皇が残した足跡のこと。

1931年11月3日の
明治天皇遺跡顕彰事業報告式式辞に、
大阪市青年聯合団が明治天皇御駐輦の
遺跡を顕彰し碑石を建てたその数30。

そして公園中央には、
明治天皇駐蹕遺址碑が立ちます。
一方駐蹕(ちゅうひつ)は、
天子が行幸の途中で
乗り物を停めることで、
駐輦と同じ意味だそうです。


明治天皇聖躅碑は大阪市内に、
1928年9月から1931年11月までに
建てられたものだそうです。

天下茶屋公園の聖躅碑にも
"大阪市青年聯合団"の刻、
そして"旧天下茶屋是斎屋"とあります。
薬屋 是斎屋は寛永年間(1624-44)、
近江の国の津田宗右衛門
住吉街道に面した当地へ来て
薬を商ったのが起こり。

住吉大社参詣で往来の人々に
暑気あたりなど夏の諸病にきく
という薬が「和中散」…

大いに繁盛が描かれているのは、
摂津国の観光案内書と知られる
摂津名所図会』その一とされる
住吉郡一に絵入りで登場しています。

駐蹕遺址碑の由来記は
藤澤南岳の漢文が誌しられている。
1868年(明治元)4月20日、
1878年2月14日に駐蹕臨幸した地。
天下茶屋是斎屋ののちの邸主
高津久右衛門は荒廃した仮殿を撤去、
この碑を建てたのだそうです。


公園内には石組みや井戸跡が
残されています。

藤澤南岳藤澤東畡の長子で、
1842年(天保13)生まれ、
1865年(慶応元)に泊園書院
第二代院主となった人。
1868年 高松に戻り佐幕から
勤皇へと劇的転換させ、
藩滅亡の危機を救ったとか。

1873年に書院を大阪船場に再興…
関西を代表する文化人として活躍。

"通天閣"や森下"仁丹

中央区今橋の"愛珠幼稚園"、
小豆島の名勝"寒霞渓"などは
南岳の命名なのです。

話を天下茶屋に戻します…

駐蹕遺址碑の側に遺る礎石。

これは四天王寺の末寺であった
阿倍寺の白鳳時代の五重ノ塔
花崗岩でできた礎石で、
今の阿倍野区松崎町にあったもの。

そして神木の祠が祀られていました。

そのまま紀州街道を下ると…
"天下茶屋跡"

住吉大社へ行く途中、
豊臣秀吉が紀州街道沿いの
芽木家の屋敷で茶会を催した
という故事より "天下茶屋"の名。

天正年間 (1573~92) 芽木家初代
小兵衛光立がここに茶屋を出したという。
芽木家の茶店から清泉を汲んで、
お伴の千利休に茶を点てさせたところ、
味の良さに感激し「恵の水」の銘。

芽木家に玄米年三十俵の朱印
を与えたことから、
関白殿下の"殿下茶屋"…

1945年の戦災に遭うまでは、
中二階の本葺きの屋根…
5000平方メートルにもおよぶ
広大な小兵衛屋敷があったそうです。
くすのきの大樹と後年修復された土蔵
いくつかの石像だけが残っていました。

紀州街道をへだてた東側の杜、
"紹鴎森天満宮"とも…
千利休の師の武野紹鴎
隠棲したところも秀吉ゆかりの地
次回ブログります。

※このブログは平尾 修一さんの
 「明治天皇聖躅 碑を訪ねて
   を参考にしました。

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