天満寺町コンクリ寺めぐり⑮ 洪庵の師 中天游のこと


龍海寺に眠る緒方洪庵は、
この世を去ると悟ったとき、
「自分の墓は敬愛する師の横に」
と言い残していったそうです。
師の名は中天游(なか てんゆう)、
1783年(天明3)京都・丹後の儒医
上田河陽の子として生を受けます。
父 河陽が入婿であったため、
母方姓 中氏を継ぎ京都で育ちます。

『医家先哲肖像集』より海上随鷗

23歳 江戸で儒学を修めるかたわら、
大槻玄沢の芝蘭堂で蘭医学、
長崎遊学のち京都に戻り、
蘭学者 海上随鷗の門に…
随鷗病没後に娘のさだと結婚

35歳のとき大坂に移り、
大阪市西区の靭で医業を開業、
西区京町堀二丁目
当時 坂本町と呼ばれた
一角に花乃井公園があり、
"中天游邸跡"の碑が立ちます。

『医家先哲肖像集』より斎藤方策

天游は"橋本宗吉絲漢堂"の同門、
大坂の蘭医 斉藤方策
昵懇であったそうです。
そして自らも"思々斎塾"を開き、
後進の指導にあたったそうです。
"思々斎塾"と"絲漢堂"は、
大坂蘭学の拠点でした。


さだ は蘭医学者の娘だけあって、
医学に長けていたそうで、
大坂での医業は専らさだの仕事…
絲漢堂と思々斎塾で過ごす以外は、
天遊は朝から晩まで読書に没頭。
医学より天文、物理の理学、
その実践の蘭学こそが彼の道、
さだ は見抜いていたようです。


天游の医学における功績は、
斉藤方策と共同翻訳の
ベルギーのパルへインの
著作『把而翕湮解剖図譜』の
銅版画翻刻出版がそれです。

『把而翕湮解剖図譜』扉絵

天游にその腕を見込まれた
従弟の中伊三郎の手掛けた
銅版画は精密で秀逸でした、
原書図と遜色なく蘭医学界の
基本テキストとなりました。
1824年(文政7)上下2巻が
刊行されたそうです。

『把而翕湮解剖図譜』より

先だって1822年(文政5)、
大坂でもコレラが大流行
漢方医も蘭医も事態収束を
見守るしかありませんでした。
ただその中にあって斉藤方策は、
多数の臨床例から治療案や
処方案を考察・試用し、
対応に専念したそうです。
方策の姿勢は合理的かつ科学的、
大坂随一の臨床医と呼ぶに
ふさわしい存在でした。


『医範提綱内象銅版図』扉絵

杉田玄白の『解体新書』や
宇田川榛斎
『医範提網(いはんていこう)』など、
人体解剖図は紹介されていましたが、
木版画によっており銅版画に比べ、
その精緻さにおいて及ぶべくもなく…


『医家先哲肖像集』より小石元俊

『把而翕湮解剖図譜』は、
蘭医で人体解剖の経験をもつ
小石元俊(こいしげんしゅん)より、
門下生として方策が借りたもの。
ただ写すのではなく…
西洋医学書の解剖図が
正確であることを再認識させる、
方策の天游は仕事の秀逸さ…

『医家先哲肖像集』より山脇東洋

日本初の人体解剖は、
1754年(宝暦4) 京都の医学者
山脇東洋の手によるものとか。
その20数年後 大坂においても、
行われることになるのです。

当時の人体解剖は主に刑死者を
用いて行われていました
ので、
町奉行所の許可を得て、
刑場に足を運び腑分けを見学。
大坂の木津川と三軒家川に囲まれた
中洲を "難波島"と呼び、
葭(よし)に覆われた北側一帯の
葭島(よしじま)には今木の刑場があり、
長堀や江戸堀からもそう遠くなく、
足繁く通っていたのでしょうね。

大坂蘭医学の発展を支えた
土佐堀の地には時代がめぐって、
倉庫、配送センターが林立しています。

『把而翕湮解剖図譜』より

中伊三郎は幼少の火傷により、
右手は引きつり曲がるという
ハンディを背負っていました。
元来手先が器用な伊三郎は、
フランスのシュメールの
『百科全書』を参考にするなど、
技術を自ら工夫し模刻に
取り組んだのです。

『把而翕湮解剖図譜』より

中伊三郎も腑分けに同席??
図譜の精密さから想像するに、
そのように思えてなりません。

『医家先哲肖像集』より緒方洪庵

時が流れて1826年(文政9)、
備中国 足守から大坂に着到…
天游の門を叩いたのが
緒方三平と名乗る16歳の若者
天游はその4年後江戸の蘭医、
"三大蘭方医"の一人とされる
坪井信道の許へ送り出します。
無限の可能性を秘めた若者こそ、
後の緒方洪庵その人でした。

《橋本宗吉肖像画》
 武田科学振興財団 所蔵

その後 天游と伊三郎のこと…
天游は橋本宗吉の指導を受け、
天文学、数学、物理学など
大いに研鑽を重ねました。

『視学一歩』
 京都大学図書館 所蔵

光学的視点の『視学一歩』、
『天学一歩』『算学一歩』と
著作を重ねました。

眼球の解剖学的解説を加えた
『視学一歩』写本は蘭医たちに、
広く読まれたていたそうです。

中天游は1835年(天保6)に逝去…
1836年に洪庵は、
中天游の子 中耕介ともに長崎へ。
緒方洪庵は2年滞在、
耕介は萩の長州藩医 青木周弼のもと、
蘭方医学を研鑚し7年後 帰阪します。

1838年に"適々斎塾"が開塾、
洪庵と八重と結婚もこの年のこと。
仲人を務めたのが中伊三郎、
その後 緒方洪庵は思々斎塾=適塾を
中伊三郎に継がせています。


天游 と さだの墓石は、
龍海寺で並んでいますが、
"天游"の文字をわずかに残す墓碑、
"室 海上氏墓"は近年新しいもの…
今の墓の姿を洪庵は想像だに
しなかたのだと思います。
墓にまつわる人情の機微を
思い知らされる光景があるとか…

戦後しばらくの間、
無縁仏の中に長らくあったとか…
時空を超えて夫妻は仲睦まじく、
そして弟子 洪庵らとともに…

小説『天游 蘭学の架け橋となった男
には、天游と さだの結婚について
こんな風に綴られています。

世間が正月で浮かれている
松の内のある日、
随鷗は枕もとに天游をよんだ。…
かたずをのんで師匠の
つぎの言葉をまっているのは、
天游だけではなかった。
塾生全員が、師匠は新参者の天游に
なにをたのもうとしているのか、
興味しんしんだった。…
「天游、さだと夫婦になってくれ」
随鷗は天游にさだを託すと、
なすべきことをしおえたような
安らかな顔で、あの世へ旅立った。
五十三歳だった。
随鷗の葬儀をすませ、
百日の法要をつとめあげると、
ふたりは祝言をあげて夫婦になった。


小説の作家は中川なおみさん、
画を手掛けられたのは、
大阪出身の絵本作家 こしだミカさん…
天游をとりまく群像が
個性的に描かれています。

本書の解説において、
大阪市立科学館の嘉数次人さんは、
こう締めくくられいます。
「歴史は、
 決して一人で作られるものではなく、
 人から人への連綿と受け継がれる
 なかで作り出されていきます。
 緒方洪庵の適塾からは、
 福沢諭吉大村益次郎をはじめ、
 幕末から明治期の日本をささえる
 人物が多く輩出しました。
 かれらの活動の幅広さを見ると、
 麻田剛立間重富が種をまき、
 橋本宗吉が目を出し、
 中天游に受け継がれた大坂蘭学が、
 緒方洪庵の適塾で大きく花開いた
 ようすがうかがえます。
 この歴史の流れのなかで、
 中天游は欠かせない存在と
 言えましょう。」


※このブログは中川なおみさんの
天游 蘭学の架け橋となった男
 を参考にしました。

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