太子霊場めぐりvol.24 六角堂の日影稲荷と唐崎社


六角堂の境内南東に二つのお社…
こちらは"日影稲荷"で小さいながらも、
その由緒が詳しく記された著書があります。
2018年に出版された
千頭の象が噪ぐ-京都の町の心象風景』、
書かれたのは関西大学名誉教授
池田進さんです。

日影稲荷の"日影"は小学校の名前
虎次郎の中高大の連れに
日影小学校出身が数名おりました。
京都市内から寝屋川市にある
同志社香里に通っていた連中で、
「なんで今出川の同志社中に行かん」
と言うと…「男子校に憧れた」と。

日影小学校の話しに戻ります…
日本で最初の小学校、
番組小学校の一つとして開校
1869年(明治2)のことだそうです。
"日彰小学校"と新たに命名したのは
槙村正直 京都府知事で1876年。

【山階宮邸にあった五層楼】
番組小学校であったあとのこと…
旧松山藩邸の地を購入して移転、
もとの山階宮別邸を移築して校舎に
"階松小学校"と土地と建物の
旧名義に由来する名称となります。
元山階家の住居だった建物でしたので、
老朽化もあり校舎改築の要望が
町組から出てきたとか…

その頃は"松山稲荷"だったそうです。
稲荷大明神なりと名乗る白髪の貴人が
ある役員の夢に現れて、
「私は永年のあいだ
 松山屋敷を護ってきたが、
 今度の校舎立て替えによって
 住む所がなくなり困っている。
 ここで社祠を建ててくれたなら
 災厄のないように護ってやろう」
と。

【山階宮邸から日彰小学校に
   移築された御殿の一部】
1938年になって校舎は
鉄筋コンクリート化されたのですが、
図面には"日彰稲荷"が記載がります。
ただ校舎裏庭の西北の隅で、
薄暗くて陰気で、
一人では近づきたくない場所。

"日影"は日差しのことなのですが…
ただ知事が"日影"と名付けた所以は、
今となっては分からないそうです。
戦後には稲荷は日影小学校にはなく、
すでに六角堂境内に遷座されます。

敗戦後に占領軍によって
撤去を命じられたことが理由です。

もう一つのお社は六角堂の鎮守"唐崎社"、
御祭神の唐崎明神は、唐崎の松で有名な
琵琶湖畔の唐崎神社の神様で、
祇園社と天満宮が合祀されています。

聖徳太子の六角堂を建立しようと
材木を探しておられた話に登場の老翁。

老翁曰く、「私は地主の神である。
この地の側にある禿杉という
毎朝紫雲たなびく大木を使い、
堂をこの地に建立すれば、
私が後々まで守ってやろう。」
と。
その後光明を輝かせながら
東の方角へ消えたのが"明神天子菩薩"。
近江八景の1つでもある唐崎神社は、
持統天皇の御代697年の創建とされ、
日吉大社の神職家の先祖である、
琴御館宇志丸がこの地に居住され、
"唐崎"と名付けられたのだとか。
御祭神 女別当命は琴御館宇志の妻君です。

木鼻には獅子と一角獣
頭頂に一本の角が生えています。

右のものには角は見えませんが、
ちょっとコミックな風貌です。

滋賀の日吉大社では年の始めに、
日吉の大神と人々との出会いの祭り、
歳旦祭の神事がとりおこなわれます。
日の出前の暁闇のなか、
西本宮では松明の灯で能の「翁」、
東本宮は謡曲「高砂」が奉納される
とか。
松明の分火を自宅へ持ち帰り、
炊事の火とする風習が残り、
発火という別称もあるそうです。
これに因んでか、蟇股の彫刻には、
大松と翁が彫られているのやと思います。

その後の日影小学校のこと…
1993年に下京第5番組の生祥校、
下京第8番組 立誠校と統合され
高倉東小学校となり、
第2番組 本能校と第3番組 明倫校の
高倉西小と大合併し"高倉小学校"へ。
日影小学校はかつての地を
引き継いでいるのだそうです。

※このブログは洛中生息
「洛中の象の像 日影稲荷の象」を
        参考にしました。

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