太閤秀吉を辿る vol.10 淀殿の最期の地
都会の喧騒に立つ太融寺に、
"史跡 淀殿之墓"があります。
藤見東陽作の"太融寺淀殿の墓を弔う"
「大坂の城樓碧涯を壓す
姉は豊公の寵珠帷を縱にす
春花秋月君に依りて麗し
窈窕嬋妍 嗣を抱いて期す
方廣の鑄銘 姦智の將
紅蓮の劫火 憫憐の姫
今聞く鐘は愴し太融寺
墓石香煙 菊を供うるは誰ぞや」
詩碑は一行6字であったりしますが、
淀殿の墓の左側にある"七言律詩"、
大坂城樓壓碧涯〜と続きます。
大坂城山里丸に建てられた、
"豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地"。
落城は1615年(慶長20)5月8日 、
前日の7日に大勢が決し、
城内は内応者による放火が始まった…
潜んだ場所は、天守閣の北にあたる
山里曲輪にある隅櫓とも糒櫓とも、
自害して果てたとされています。
全てが灰燼に帰したため、
遺体はあったものの誰のものとは、
分からない状態であったとか。
秀吉が与えた"吉光"の短刀のそば、
首のない遺体があったとか…
『絵本太閤記』で対峙する
正室の"北政所"と側室の"淀君"、
女同士の対立が豊臣家滅亡を招いた、
時はめぐって1980年のこと、
京橋口の二の丸跡から頭蓋骨。
歯の状態から20代の男性、
栄養状態良好な人物と判明。
さらに大型の馬が共に…
その後頭骨は秀頼のものとされ、
京都の清涼寺に葬られました。
こちら落城する大坂城を描いた
「大坂卯年図」と呼ばれるもの。
大坂の陣の直後に出版された
仮名草子『大坂物語』に
付けられていたもので、
後世に刷られた復刻版だとか…
「慶長二十年乙卯五月
大坂の落いれるかたちを
絵ニかきて其頃売あるきし物
なるべし元和古写本の表紙の
裡より見出しひめおける
広く好古の人々に見せんとして
桜木にちりばめはべりぬ」と奥書。
「大阪安部野之合戦図」
右上に炎上する大坂城と
「秀頼様/御袋様」
以下西軍の武将連なります。
天王寺や勝山の戦い、
下段に将軍様、宰相様、御所様…
東軍の武将の名がみえます。
これら絵図は"かわら版"の
始まりとされるものですが、
その後これらはご法度に。
《一魁随筆 淀之君》
月岡芳年
京橋口の二の丸跡から頭蓋骨。
歯の状態から20代の男性、
栄養状態良好な人物と判明。
さらに大型の馬が共に…
その後頭骨は秀頼のものとされ、
京都の清涼寺に葬られました。
こちら落城する大坂城を描いた
「大坂卯年図」と呼ばれるもの。
大坂の陣の直後に出版された
仮名草子『大坂物語』に
付けられていたもので、
後世に刷られた復刻版だとか…
「慶長二十年乙卯五月
大坂の落いれるかたちを
絵ニかきて其頃売あるきし物
なるべし元和古写本の表紙の
裡より見出しひめおける
広く好古の人々に見せんとして
桜木にちりばめはべりぬ」と奥書。
「大阪安部野之合戦図」
右上に炎上する大坂城と
「秀頼様/御袋様」
以下西軍の武将連なります。
天王寺や勝山の戦い、
下段に将軍様、宰相様、御所様…
東軍の武将の名がみえます。
これら絵図は"かわら版"の
始まりとされるものですが、
その後これらはご法度に。
《一魁随筆 淀之君》
月岡芳年
「我は信長の姪、浅井の娘なり」
『大坂物語』でこう語る"淀君"。
日本の歴史上 類まれなる"悪女"、
容赦ないほどの悪質な扱いはナゼ?
《和睦論難波戦記 淀君》
歌川豊斎 筆
実録『難波秘事録』の淀殿人物像…
「前田利長や方広寺の鐘銘文を
書いた清韓長老とも通じた
『大淫好色、恥を知らざる婦人』
にまで成り下がる」※とされる。
高野山で切腹の秀吉甥の秀次…
「亡き関白秀次が枕上に立ち、
『自分だけでなく妻子らも
卑賤の者に斬首され、
辱められた恨みは晴れることがない。
今後は秀頼を恨んでやる』と言って
涙を流した夢を見たという」※
豊臣秀吉の一代記『絵本太閤記』は、
1797年から1802年(寛政9 - 享和2)に
書かれた絵草紙。
「石田三成智陥関白」の一場面、
石田三成が関白の豊臣秀次を
亡き者にするために策略を
企てたことが描かれています。
三成の企てた策略に淀君は、
『大坂物語』でこう語る"淀君"。
日本の歴史上 類まれなる"悪女"、
容赦ないほどの悪質な扱いはナゼ?
《和睦論難波戦記 淀君》
歌川豊斎 筆
実録『難波秘事録』の淀殿人物像…
「前田利長や方広寺の鐘銘文を
書いた清韓長老とも通じた
『大淫好色、恥を知らざる婦人』
にまで成り下がる」※とされる。
高野山で切腹の秀吉甥の秀次…
「亡き関白秀次が枕上に立ち、
『自分だけでなく妻子らも
卑賤の者に斬首され、
辱められた恨みは晴れることがない。
今後は秀頼を恨んでやる』と言って
涙を流した夢を見たという」※
豊臣秀吉の一代記『絵本太閤記』は、
1797年から1802年(寛政9 - 享和2)に
書かれた絵草紙。
「石田三成智陥関白」の一場面、
石田三成が関白の豊臣秀次を
亡き者にするために策略を
企てたことが描かれています。
三成の企てた策略に淀君は、
秀次に美女が送り込んだとか、
罠とも知らなずに秀次は、
さらに酷い行いをするように…とある。
「淀君行状」では…
容貌が衰えた淀君が永遠の美貌を
手に入れたいと考えるように…
僧 日瞬を呼び寄せ怪しい法力で、
美貌を手に入れようにしたとか。
淀君の内股の肉を一寸切り取り、
淀君の肉を食べた大蛇の肉を
一寸切り取りを再び淀君の内股へ。
淀君の容貌は日に日に美しくなり、
複数の男性と関係をもったと(T_T)
ただ嫉妬心は消えることなく、
心熱が頭上から炎となり、
口が耳まで裂け舌が伸び…
罠とも知らなずに秀次は、
さらに酷い行いをするように…とある。
「淀君行状」では…
容貌が衰えた淀君が永遠の美貌を
手に入れたいと考えるように…
僧 日瞬を呼び寄せ怪しい法力で、
美貌を手に入れようにしたとか。
淀君の内股の肉を一寸切り取り、
淀君の肉を食べた大蛇の肉を
一寸切り取りを再び淀君の内股へ。
淀君の容貌は日に日に美しくなり、
複数の男性と関係をもったと(T_T)
ただ嫉妬心は消えることなく、
心熱が頭上から炎となり、
口が耳まで裂け舌が伸び…
『絵本太閤記』で対峙する
正室の"北政所"と側室の"淀君"、
女同士の対立が豊臣家滅亡を招いた、
そんな視点で括られているのです。
このブログにも淀殿と淀君が混在…
このブログにも淀殿と淀君が混在…
もうお気づきかも知れませんね。
"淀君"という呼び方には、
悪女・淫婦というイメージ、
そして"売春婦"を意味するのでは?
大河ドラマの時代考証の
歴史学者の小和田哲男さんの説。
《伝 淀殿像》奈良県立美術館
豊臣家滅亡から目を逸らして、
うやむやにしたい。
そんな自己嫌悪感から、
豊臣家滅亡の原因を
"淀君"という呼び方には、
悪女・淫婦というイメージ、
そして"売春婦"を意味するのでは?
大河ドラマの時代考証の
歴史学者の小和田哲男さんの説。
《伝 淀殿像》奈良県立美術館
豊臣家滅亡から目を逸らして、
うやむやにしたい。
そんな自己嫌悪感から、
豊臣家滅亡の原因を
"淀殿"に押し付けるなんて(T_T)
淀殿が淀君などという
へんてこな名前をつけられ、
悪女に仕立てられたのは、
豊臣家を滅ぼした徳川の産物とも…
太融寺の淀殿の墓と向き合う石碑、
淀殿の法名は『大虞院英岩』、
淀の方 大阪夏の陣に敗戦、
秀頼と共に自刃した。
1877年に城東鴫野より太融寺へ。
ちなみに大虞院の”虞”には、
「心配する。おそれる。
おもんばかる。」という意。
淀殿よ!太融寺で安らかにと願ふ。
淀殿が淀君などという
へんてこな名前をつけられ、
悪女に仕立てられたのは、
豊臣家を滅ぼした徳川の産物とも…
太融寺の淀殿の墓と向き合う石碑、
淀殿の法名は『大虞院英岩』、
淀の方 大阪夏の陣に敗戦、
秀頼と共に自刃した。
1877年に城東鴫野より太融寺へ。
ちなみに大虞院の”虞”には、
「心配する。おそれる。
おもんばかる。」という意。
淀殿よ!太融寺で安らかにと願ふ。
※このブログは
『秀吉の虚像と実像』を参考にしました。
堀 新、井上 泰至 ほか 2016年 笠間書院