京の冬の旅2022 光悦と等伯と本法寺


本法寺本堂の前に立つ、
光悦松長谷川等伯像

本法寺の開創については諸説あり、
1436年(永享8)に東洞院綾小路に
造られたれた"弘通所"がルーツとか。
紆余曲折にて1587年(天正15)に
この地に移ってきた本法寺、
私財を投じて再建に協力したのが、
本阿弥光二・光悦 親子だったのです。

光悦が手掛けた多くの美術品の
中でも秀逸と言われる
花唐草文螺鈿経箱》が、
本法寺のリーフレットに
あしらわれています。
裏千家茶道資料館所蔵で、
オリジナルには「法華経」と
螺鈿により表されています。

光悦作の「巴の庭」へ…

室町期の書院風枯山水
安土桃山期の芽生えを感じる名庭、
1972年修復、1986年 国指定名勝に。

円を2つ組み合わせた円形の石と、
10本の切石で囲んだ十角形の蓮池、
「日」と「蓮」を表すとか…

本法寺でいただいた現在の様子…
庭園中央に"日蓮"の字を象るとは、
さすが光悦だと思わせるものです。

『都林泉名勝図会』の「三巴の庭」、
三カ所の築山を三巴の紋に
組み合わせてあります。
今は巴の形が分かりづらい…
巴の形は「この世は因果応報」
ということを表しています。

書院は紀州徳川家寄進の総檜造り、
1825年 (文政8)に再建のもので、
上段の間の天袋地袋は法橋観山の筆。

廊下にある杉戸絵も観山筆、
孔雀のようにも鶴のようにも…

五三桐の襖

本法寺ゆかりのもう一人の文化人、
長谷川等伯その人。
等伯は能登国で生まれ、
染物業を営む長谷川家養子に、
七尾で絵師として活動していました。
33歳のとき養父母が相次いで
亡くなったのをきっかけに京都へ…
本法寺は等伯の生家の
菩提寺の本山であったという縁で
塔頭 教行院に居して、
制作に励んだそうです。

本法寺第八世住職の
日堯上人像》は、
等伯34歳の上洛後
間もない頃の作品。
日堯上人は1572年(元亀3)、
等伯上洛の年に30歳の
若さで没したという。

よく知られる千利休像
表千家の不審庵におられます。

お向かいが不審庵さんです。
秀吉政権の実力者でもあり、
等伯の理解者であったとも。
利休自刃は等伯52歳のとき、
55歳のとき息子の久蔵
26歳という若さで失います。
智積院には親子の障壁画
遺されています。

寺伝によると…
等伯は悲しみに暮れ、
絵筆を捨て描くのを
辞めようとしますが、
本法寺十世・日通上人から
「絵を辞めれば、
 あの世にいっても
 永遠に浮かばれない。
 もう一度
 志をもって描きなさい」

と言われ再び立ち上がったと。
日通上人像》は晩年70歳の筆
上人の人柄と、知己を失った
等伯の悲しみが伝わるとか…

等伯は本堂の天井画や客殿の
障壁画を描きましたが、
天明の大火で焼失…
経蔵と宝蔵が残ったことで…
佛涅槃図》など軸物類は、
奇跡的に伝えられたのです。

本法寺に伝わる《佛涅槃図》は、
久蔵の七回忌の供養に描いたもの。
京都三大涅槃図の一つに数えられ、
華やかな描表具を含めると
高さ10メートルにも及ぶもの、
原寸大のレプリカにご対面
この涅槃図にはお釈迦様の母
摩耶夫人が投げてよこした
"薬袋"が描かれています。
緑色の服を着た横顔の"等伯"ともに…

息子のためを思って投げた"薬袋"、
木にひっかかってしまっています。
実は摩耶夫人はお釈迦様を
生んで7日目に亡くなっていて、
天上からしか投げるしかなかったと。
取りに行こうとした

猫に食べられてしまい、
薬は間に合わないのです。

十二支の一番が子年で、
猫が入らなかった理由の一つ。

猫もこの涅槃図に描かれていて、
別け隔てなくただ追慕の想い、
そう感じさせる逸品といえます。
ちなみにお薬を処方する"投薬"は、
ここからきているとか。

本堂前の長谷川等伯は旅立ちの姿
編み笠を右手であげ、遠くを見つめ、
ぎゅっと口元を結ぶ。
70歳を超え、江戸へ高齢の旅、
覚悟のほどが伺えるのです。
秀吉が死んで、天下は家康の時代へ。
左手に絵筆1本…
長谷川一門の命運をかけ、
新たなパトロンを求めての旅立ち、

ただ病に倒れ江戸着の翌々日、
72歳生涯を閉じたという。

大涅槃図の御開帳は、
桜の咲く頃だとか…
等伯の虎を見てみようかと。

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