太閤秀吉を辿る vol.4 桐紋のこと
豊臣秀吉といえば…「五七桐」、
桐紋の「桐」とは、
古代中国の神話に出てくる
鳳凰が止まる木とされていて、
昔から神聖なもでした。
日本では800年頃から天皇の
衣装に使われるなどして、
皇室のみが用いることがきる
格式ある紋章としてきました。
大阪城豊国神社の秀吉の軍配、
室町幕府の初代将軍 足利尊氏は、
当時の後醍醐天皇からの
恩賞のひとつが"桐紋"だったとか。
13代将軍 足利義輝は、
信長にこの桐紋を下賜…
天皇家から有力武家へ
桐紋を使う家は少しずつ
増えていったのはそのため。
秀吉の桐紋も信長から
頂戴したのが始まりと
言われています。
信長の家臣時代は「五三桐」、
姓を豊臣と改めた「五七桐」を
後陽成天皇から賜ったのを機に、
「五七桐」を用いたとか。
秀吉は家臣たちに桐紋を
与えることで関係を強化…
ただ多くの家臣に与えすぎたため、
桐紋の権威が薄れてしまったとか。
大阪豊国神社の本殿は
コンクリート造なのですが、
桐の装飾蟇股がみられます。
《道中風呂道具》江戸時代 17世紀
北政所遺愛品との伝承を有する、
備中国足守藩木下家に伝来したもの。
こちらの桐紋は五七桐とは異なり、
十一と七の花からなっています。
桐の花は4月下旬から5月上旬、
薄紫色の花が美しく咲き揃います。
緑色の葉をスカートのように
腰につけて3本の花芯が
天に伸びていく姿、
桐紋の原形とされています。
桐の花は大阪城内のもの、
極楽橋を渡ったところに
"山里丸"と呼ばれる一帯に、
キリの大木が約30本あり、
その一つです。
天守閣の北側にあたり、
一段低くあまり日当たりは、
よくないのですが、
ケヤキやクスノキ、
イチョウなどとともに、
生い茂っています。
1965年の極楽橋再架以後に
植樹されたものなのですが…
かなりの大木に成長しています。
関学電業会の寄贈とか…
大昔のころより、神さまの行事や
大切な場面で登場してきた花。
花を楽しみにしていたのですが…
4月20日頃に開花したとか。
大阪城天守閣はコンクリの
いわゆる模擬天守ですが、
破風には桐紋がならびます。
《五三の桐紋絞り染絹裂陣幕》
MIHO MUSEUM蔵
醍醐の花見(慶長三年・1598)に
用いたものとの伝承が残るもの。
陣幕の断片を屏風に仕立てたもので、
縫い目の二カ所に熨斗結びにして
縫いつけられているのは、
風抜きの孔とした"物見"の跡。
麻糸で針目細かく縫い締め防染、
桃山時代に盛んだった「辻が花」に
通じる技法によって染められたもの。
大阪城天守閣を写す水面、
1931年の天守閣復興にあわせ、
当時東側に残っていた
紀州御殿の庭園として整備された
純日本式庭園の池で、
インバウンドに人気スポットです。
その近くにある桐のレリーフ。
桐の英名は「Empress tree」、
「Princess tree」とも…
切っても切っても成長して
開花することからこの「切る」が
転化していって…
「桐」になったとされるものが、
日本で一番知られている由来です。
1930年10月30日に起工され、
その翌年に竣工した大阪市教育会が
建てた教育勅語の碑に残るレリーフ。
「教育勅語渙發四十周年」と刻まれる…
"市民の手による復興"と知られる
大阪城天守閣は1931年に竣工、
市長の呼びかけで寄せられた寄付は、
わずか半年で目標額150万円に達成。
しかし天守閣にかけられたのは、
わずか47万円だったのです。
寄付の大半が投じられたのは、
こちらの建物だったのです。
第四師団司令部庁舎…
第4師団の前身は大阪鎮台、
満州駐屯、終戦はタイ・ランバン。
GHQ接収後、警察庁舎へ…
そして大阪市立博物館に。
長らく閉じられていましたが、
2017年からミライザ大阪城に。
150万円のうちこちらには、
80万円が用され頑強なつくりに、
※桐の花の写真は大阪城公園のFacebookより