2016年12月29日木曜日

大阪のはしばし vol.8 田蓑橋


田蓑橋
堂島開発によって、
元禄時代に架けられた橋の一つ。
田蓑は古代の“おおさか”にあった
とされる八十八島の一つ、
田蓑島”に由来しています。

道長の時代の『扶桑略記』には、
田蓑島を「雲海茫々、沙渚眇々」、
島というよりは砂洲だったようです。
江戸期の文化3年(18006)の
『増補摂州大阪地図』には、
鷺洲の北部を「古田蓑島」とか…
北区堂島とも、
天王寺の西側とも伝わります。

田蓑橋が近代橋になったのは、
大大阪時代のことで、
優美な形のコンクリートアーチ
屈指の美しい橋であったそうです。
大正1924年(大正13)に
デザインコンペのあった
淀屋橋と大江橋の3位
なった案を参考にされました。

基礎だけ昔のを使っていて、
橋脚や橋台といった
橋と地盤をつなぐ構造体を
受け継いでいます。
橋脚の位置にバルコニー
設けられたのは、
戦前の姿を少しでも
留めようという気づかいの
表れかも知れませぬ。

その昔 北東側には、
大阪中央電信局」。
山田守の設計で1927年の築、
パラボラ型の窓のリピート…
放物線アーチのモチーフ。
大阪中央電話局は1966年に
取り壊されたのですが、
往時をしのばせる記念碑。
「孤形の屋階をつけた
 ローマ式近代建築で当時に
 「白亜の殿堂または不夜城
 とうたわれ…」とあります。

同じ右岸にたつ「蛸の松」の碑石。
橋の周辺は各藩の蔵屋敷が
建ち並んでいたそうで、
広島藩と久留米藩蔵屋敷前に
植えられた松は、
実際は左岸にあったそうです。

見事な枝振り…
まるで手足を広げて海を泳ぐ
蛸の様に見えることから
「蛸の松」と名付けられ、
ご神木として愛されてきました。
その後、次第に樹勢が衰え、
明治の終わりに
枯死してしまいましたが、
切り株は大阪教育大学に
保存されているそうです。
ちなみにこの「蛸の松」の絵、
お昆布屋さん「神宗」の
進物用容器上蓋のデザインに
使用されています。
近年 蔵屋敷跡の発掘調査が
行われて、
大規模な舟入の構造などが
確認されたそうですよ。

「田蓑橋」
橋長 :82.3m 幅員 :14.7m
形式 :桁橋
完成 :1964年(昭和39)
河川名:堂島川

2016年12月27日火曜日

赤備えの陣へ 志紀長吉神社 


大河ドラマ「真田丸」

終わりましたね…
大坂夏の陣の

道明寺・誉田の戦い」の後、
戦勝祈願としたとされる
志紀長吉神社」へ。
谷町線 長原駅からほど近く、
改札前に幸村マーク入りの
マップがあったのですが、
まっすぐ行くと。

参道がすぐ見つかったので、
北へ…

東軍の伊達政宗隊と一戦後、
大坂城に撤退する
道すがら立ち寄り、
戦勝を祈願として、
軍刀六文銭旗を奉納した社。
当時は「日蔭明神」という社、
『中河内郡誌』によれば、
「伊達政宗との大坂夏の陣の時
 大坂城より退却命令が下され
 天王寺・茶臼山に
 退くことになったが、
 この途中 幸村・戦勝を
 日蔭明神に祈願せし時、
 神社の馬場にて休息せりと伝う。
 この時麻地六文銭章の旗
 および刀剣を当社へ寄進せり」と…
刀剣はGHQ接収後行方知らず…
ただ軍旗は当社にあって、
正月には一般公開されるとか。


ただ…奮闘するのですが、
徳川軍の圧倒的な
数におされてしまって、
最期は安居神社にて討ち死。
と…伝わっています。
室町時代から戦国時代には
永原大宮」と呼ばれて、
四天王寺や住吉大社などに
列せられる地域支配の核
となる社寺だったとも。
江戸時代には
神仏習合の阿弥陀寺とも
号していたそうです。

神紋「日蔭の蔓
ひかげのかずら”と読みます。
第51代平城天皇(809年)に発する、
日蔭大明神の受位に因む。
日蔭蔓とは、日蔭に生えた蔓を
用いて作った冠飾りのこと。


社殿は、
戦後再興のコンクリート造。

境内には神宮遥拝所もありました。

徳川方が苦戦したのは、
この周辺には砦の役目を
果たした古墳があったからとも…
近くにも「長原高廻り古墳群」。
大阪市営地下鉄工事により発掘、
長原45号墳では武人形埴輪の
発見もあったそうです。

民家の間にたつ
真田幸村休憩所跡」。
ホント…
見つけるの、
苦労しました(TOT)





永楽通宝ならぬ
五円硬貨で六文銭。

長原歴史保存委員会さんが、
建てられてもの。

「御神徳を讃え奉りて 幸村
 家が思ふ心のうちの霧晴れて
 神の利益に任せこそすれ」
「赤備えの陣へ」
続くかどうかは???

2016年12月24日土曜日

大阪のはしばし vol.7 和気橋


和気橋」には六文銭の
幟が掲げられていました。

大坂冬の陣では家康の本陣、
そして夏の陣では幸村が布陣の
激戦地となった茶臼山へ渡る橋。

奈良時代に和気清麻呂
河内川を南に引こうとしたとする
河底池」とともに史蹟の碑石。

旧大和川の流れを変えるために
上町台地を開削したのは、
788年(延暦7年)のこと

橋が架かったのは
1936年のことですから、
戦前の時勢からすると、
皇統護持で活躍
和気清麻呂の名を
付けたのは時勢を表すもの。
赤備えの真田の橋のように…
すっかりと塗り直されています。
2008年4月ごろは、
朱もずいぶんと薄かったです。

擬宝珠があるから、
位置づけとしては公儀橋
ということになりますので、
幸村橋とか茶臼山橋とは
名付けなかったことは、
合点がいきます。

茶臼山が古墳か否かについては、
1986年調査で
埴輪・葺石確認せず、
「古墳ではない」とする
説もでたのですが、
2009年に水銀朱が塗られた
石室らしきものが発掘…
ふたたび「学術的に古墳」と
位置づけられているのです
「河底池」
ちゃぶいけ”という方が、
地元の人には通りがヨイのかも…
東西の陣が交互に張られた、
小高い山は四方八方から、
踏み入られていていました。


真田幸村の名言なる立て札も…
六文銭のみ…
まさに真田丸ブーム一色。
大阪市の古い写真だと…
どちらかというと、
橋の色はクリーム色?(TOT)
しばらくは赤備えで…