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歴史館に残るスタジアムフーズたち

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夏の甲子園名物といえば、     「かちわり氷」。 縦約十五センチ、横約十センチのポリ袋に 5センチを超えるの武骨な氷がごろごろ。 袋を開封しストローで溶けた水を飲むと、 冷たさが火照った体に染みわたる。   このかちわり氷は1957年に、 球場近くで すし店 を経営していた 梶本 国太郎 さんの発案なんだそうだ。 当時の氷は希少品だったようで、 すし屋のカウンターにも電気製でなく 氷で冷やす冷蔵庫がほとんど。 ところで今でこそ パック化 されているが、 一昔までは 「金魚袋」 のようなものに 細いストローがさしてあるスタイル。 甲子園歴史館には歴代の 「かちわり袋」があった。 初代の袋の製造者の欄には、 梶本さんの息子の 泰士 さ ん の名前が残る。 一番初めは 経木の皮 で包まれていたようだ。 最近は凍らせられるペットボトルが登場し、 最盛期にくらべて売上は 3分の1になっているらしい。 もう一つは 「カレーうどん」 。 コーヒー付きで25銭っていうから、 戦前の頃の看板か。 カレーライスは1924年の 甲子園開設当初からずっとある名物。 ちなみに、 「カレーライス」もコーヒー付で 30銭やったそうです。 うどんの方が安かったんですね。 グラウンドキーパーの日給が75銭 だった時代、 ハイカラなスタジアムフーズには やはりコーヒーが付きものだったのでしょう。 今アルプスのフーズコートで売ってる 「カレーうどん」は650円です。 独特のセットメニューの看板が面白い。    

甲子園の「がっつり飯」たち

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新しい甲子園のスタジアムフーズたち。 さっそくガッツイてきたので。。 こちらは今年登場の 「パワーブラゼル丼」 。 「67」はチェダーチーズ で 書かれてる。 牛肉とチキンにサラダが 乗ってる。 虎友ちゃんが食べていました。 850円 やそうです。 時間がたつと67が溶けちゃうみたい。 こちらは牛肉でご飯を巻き上げた 肉巻きおにぎり 「牛肉がっちり肉巻王」 850円 甘くない?と聞かれ続けて、 ふと目を離したすきに 応分以上の砂糖が掘り込まれた 「すきやき」の肉をご飯で 掻き込んだときの感じを思い出す味です。 見た目はこんなんだけど味のあるヤツです。 もうひとつの新登場の プレイヤーズメニューは 「城島流とんこつラーメン」 800円なのだが・・・ やはり39ユニの虎次郎は 浮気はしてられないし。 ジョーのステッカーがついても、 こゆすぎて使い道に困る。。 てなわけで寒さ対策は、 「必勝ぼっかけラーメン」 を。 海苔の効果は必勝とはならなかったが。。 「姫路おでんの虎イスバーガー」 という 不思議メニューもある。 姫路おでん??が サフランライスとイカ墨飯で挟まれた ライスバーガーって摩訶不思議なのだが。 次回チャレンジしてみるか。   

甲子園メモリアルボックス 弾痕が残る鉄扉

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甲子園歴史館 メモリアムボックス探訪 最終回は甲子園の 生き証人と呼ばれる 「弾痕が残る鉄扉」 です。 1945年5月10日 。 この日は阪神地域にも空襲があり、 球場の西側の窓を突き破って、 スタンド内部に焼夷弾が入って 火災が発生し損傷に いたったそうです。 グランドにも多くの焼夷弾が 突き刺さっていたといいます。 あの 「野球塔」 に損傷をもたらしたのもの、 この日の空襲によるものであったと言われています。 甲子園歴史館にはこないだ紹介した 「野球塔」のミニチュアともに 呉港中の優勝レリーフが 飾られていました。  過去のブログ →  甲 子園 を囲む野球史跡たち 歴史館に残る 「弾痕が残る鉄扉」 は、 甲子園を襲った二度目の空襲のときのもので、 時は1945年の 8月6日 。 あの広島の原爆投下と同じ日に、 グラウンドには焼夷弾が 5000発も突き刺さったのだそうです。 焼夷弾の投下とともに行われたのが、 B29による 「機銃掃射」 。 周辺住宅とともにこの攻撃にも見舞われます。 球場正面にあった役員・関係者出入り口鉄扉、 それがこの「弾痕が残る鉄扉」です。 時代の大きな転換期である敗戦をむかえ、 甲子園は米軍の接収施設となります。 接収は1945年10月から 1947年3月まで続きました。 進駐軍の軍属軍人用の 体育施設として利用されます。 3塁側のアルプススタンドにあった 「室内温水プール」 も使われたそうです。 プールが作られたのは1932年のことですが、 戦時中には水中音波研究所として 軍艦や水中レーダーの研究が行われていたそうです。 時局によっては「甲子園」も、 その色に染められていく以外に 選択肢を許されなかった時代がありました。 「野球」が毎日できるこの時代。 これからも感謝のキモチを 忘れずにいたいと思います。

甲子園メモリアルボックス ツタ

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甲子園歴史館 メモリアムボックス探訪 今回は 「ツタの幹」 。 リニューアルから10年かけて復活されるという 甲子園の「蔦」は初めて植えられたのは、 完成した1924年の12月のことだったそうです。 蔦がからまるラインの古城を想わせる雰囲気は、 2006年まで外壁のほぼ全面を覆っていました。 植えられていたのは二種類の 「ツタ」 。 「ナツヅタ」と呼ばれる ブドウ科のツタ が大部分をカバーしますが、 実は球場正面は北側にあたり 阪神高速の高架に遮られているので、 ここの部分は ウコギ科のキヅタの「フユヅタ」 で カバーされていたそうです。 いわゆる西洋ヅタと呼ばれる種類で、 結婚式のブーケなどに利用されています。 甲子園球場のなかにも 「蔦」 のネーミングのレストランがあります。 「関係者の憩いの場所」 となってる 「サロン蔦」 。 メニューはほとんど変わらないそうです。 かつてはフランス語で蔦を意味する一般客向けの 「リエール」 ってのがありましたが、 今やキリンとアサヒが拮抗するエリアから その名は消滅してしまいました。 甲子園に限りませんが、 ビールはやっぱり「アサヒビール」をチョイス。 虎次郎は実は「アサヒビール」さんと 繋がりがありまして。。 要するに同級生に社員が何人かいてるんです。 ただ観戦の日曜日はデーゲーム でしたが、 1塁アイビーは陽射しがなく寂しかったので、 ビールは飲みませんでしたが、 一杯目はアサヒビールさんのフーズコートで、 ツタのお酒 をゲットしました。 その名も 「甲子園ハイボール」 で500円。 ハイボールってこの頃どの店でもよく見かけますが、 「三ツ矢サイダー」と割ったのは甘い酒・・・ ツタをイメージしたミント が入っていて なかなか爽やかでした。 でも一杯目はやはりビールという人は、 アイビーシートに持ち込みやすいですよ。 「超応援セット」 1,200円を携えて、 プレイボールを待ち望んでスタンバってください。 がっつりいったあとは メガホン替わり になりそうです。 最後にツタ情報をもう一つ。 高速道路の壁面緑化 に 甲子園のツタ が使われているそうだ。 1973年に採取された種子は、 甲子園球場のツタがルーツ。 東京と千葉を結ぶ 京葉道路 では、 全延長の約 4割 にあたる約12キロメートルが 壁面緑化されているそうだ。

甲子園のバックスクリーンビュー

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甲子園歴史館の売り物の一つ。 バックスクリーンビュー 。 タイガースの打撃練習中でしたので、 覗き窓のあるスクリーンから、 なんか「家政婦は見た」みたい。 レフトの守備位置では 「連続フルイニング」 という 数字の魔力から解放された 金本知憲 選手が、 打撃練習の打球を 追っていました。 新たなアニキの野球 を 楽しみにしていきたいと思います。 ところで、 4月17日の横浜スタジアムで着ていた ユニフォーム、スパイク、帽子は、 アメリカ・クーパーズタウンにある 「野球殿堂(Hall of Fame)」 に寄贈されるとか。 寄贈される前に国内での 最初で最後の展示 が、 GW の5月1日(土)から9日(日)に 行なわれるそうです。 ちょっと行くのがタイミングがワルかったのかな。 9日にもう一度行くかな? でも最終日だから大混雑でしょうね。。 「バックスクリーン」 といえば、 やはり 1985年の三連発 ですね。 その頃は既に電光掲示板になっていましたが。 新旧ダイナマイト打線の 「手書きのスコアボード」 がありました。 1983年まで使われていたスコアボードは 1934年春に新装されたもの。 こちらは 『男どアホ甲子園』 の ワンシーン。 外野スタンドよりも 背の低いのがわかる。 ちょっと懐かしい。

甲子園の芝もリニューアル

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甲子園の芝生もリニューアルされた今年。 実に27年ぶりに張り替えとなりました。 大阪府では盛んに 運動場の芝生化が 進められています。 この4月には、 大阪府内の学校で 甲子園球場の 芝生の運動場が登場しています。 甲子園芝生 化第1号は 東大阪市立の花園小学校。 地域の人たちの手助けもあって850平方メートルに 甲子園の外野フィールドが再現されました。 4月25日の日曜日のデーゲームには、 大阪府知事がトラッキーと 新しい外野芝を歩いていました。 そう始球式は二度目の登板にして 初ストライクを投げ込んでいました。 先着5000人への プレゼント 『芝生の種』をゲット。 大阪府の小学校の芝生化事業の冬芝としても 使用されている 「ペレニアルライグラス」 という品種。 イネ科 ドクムギ属の多年草の 牧草ですが、 点在して繁茂してしまうと「雑草」扱いされるようです。 芝生の育て方の最後に。。。 「必ず、家にお持ち帰りください」 ・・・。 どこかで芽吹いたらとヤバイ と思ったのかも知れません。 ところでこの「芝生の種」って 学術的には実は「果実」になるそうです。 イネ科ですからね。。。 日本では 「ホソムギ」 って呼ばれています。

甲子園メモリアルボックス ラッキーゾーン

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甲子園歴史館 メモリアムボックス探訪 今回はいまなき 「ラッキーゾーン」 。 1947年から1991年の44年の間、 甲子園球場には 「ラッキーゾーン」 が存在していました。 撤去されて広くなった1992年といえば、 亀山新庄フィーバーのシーズンで ヤクルトとのデットヒートが 繰り広げられた年でもありました。 思えば就職してお金に少し余裕が 出てきた頃でしたので、 「Xデー」を目指して 初めて野球観戦で 関東に行ったのはこの1992年という年。 「ラッキーゾーン」 には投球ブルペンがあり、 ライトスタンドからは声を掛けると返ってくる 距離にありました。 1985年のシーズンのブルペン担当のコーチは、 高橋重行 (たかはし・しげゆき)さんでした。 高橋重行 さんは1962年に千葉商から 現 在の横浜の 「大洋ホエールズ」 に入団、 3年目に17勝をあげ新人王に輝いています。 通算121勝135敗8セーブ。 この高橋元コーチですが、 去る3月1日に64歳で生涯を遂げられています。 いつも「ラッキーゾーン」のブルペンで ブルペンをならすトンボを片手に スタンドと 会話をされていたのが 昨日のように思い出されます。 ところで 「ラッキーゾーン」 の設置のきっかけは、 日米野球で来日した ベーブルース が 「こんなに球場が広くては  ホームランが打てない」 と発言したから・・・・ 甲子園に「ラッキーゾーン」が設置されたのは、 1947年5月のこと 最初は木製 だったそうで、 1988年のシーズンから最大2.5メートル スタンド側に移設され、 1992年3月に取り外されました。 1992年のシーズンには 「ラッキーゾーン」 が あった名残が外野の芝に刻まれていたので、 「だから外すなって言うたやろ」 と叫ぶ人続出。 虎次郎の今でもそんなレトロな一言 が出てしまいます。 実際最大では8メートルもグラウンドが広がったので、 1991年の1試合平均が1.8本で翌年は1.2本。 実に 50%減という「効果」 をもたらしてしまいました。 「ラッキーゾーン」 間際のプレイが 見せ場の一つ でした。 往年の外野手は 「ラッキーゾーン」 によじのぼり、 ホームランをまさに「もぎ取る」 プレイを魅せてくれていました。 フェンスの網にスパイクをどう引っ掛けるかが勝負。 歴史館の写真は 佐野仙好

甲子園メモリアルボックス 銀傘

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今日は試合に負けましたが。。 甲子園歴史館 に行ってきましたので、 少しずつこのブログで紹介していきたいと思います。 歴史館の2階にあがると 「甲子園球場 メモリアムボックス」 というコーナーがあります。 それぞれが甲子園の原風景を伝えるもの 「銀傘 」、 「ラッキーゾーンのフェンス」 、 「ツタの幹」 、そして 「弾痕が残る鉄扉」 。 「銀傘」 から紹介していきます。 「銀傘」 のお兄さん「 鉄傘 (てっさん)」は、 1924年に登場して 1930年にはアルプススタンドにまで 傘を広げていましたが、 その後戦時色が強まる中で、 1943年に金属供出のためもぎ取られました。 金属供出のため解体が進み、 骨組みをさらす大鉄傘   =1943年撮影 「わびしかったなあ。  とくに、球場の外に壊した鉄傘が  放置されているのを見て、  ひどく腹がたったのを覚えている。」 玉木道夫 氏の 『甲子園球場物語』 にある タイガースの 金田正泰 さんの言葉。 「鉄サンがはずされたとき、   われわれ球場関係者は  そのトイの中で名ごりを惜しんで寝た・・・」 こんな 苦いことば とともに展示されていました。 銀傘と呼ばれたのは 2代目が 「ジュラルミン」 製で 作られたのでこの名で 呼ばれるようになります。 3代目は1982年に 葺き替えられたもので、 「アルミニウム合金製」      でした。 今回のは 「ガルバリウム合板」 という素材でできています。 かなりの軽量化が 図られたようです。 また3月から「銀傘」は 1600枚の 太陽光パネルを載せて、 こゝろ新たにガンバッテいます。 発電量は阪神が甲子園で主催する 54試合分ということなんだそうです。。 今日の時点で甲子 園球場の 0.8倍の森林が吸収するのに相当する CO2の削減 に役立ったということ。 これからは人にも地球にも やさしい存在であり続けてほしいと願 います。 今年からライトスタンドの照明灯には、 Hondaのヒューマノイドロボット が 空を指さしていますね。 球場前にある 「甲子園大運動場」 の   モニュメント

地域という枠

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radiko の登場でパソコンをしながら ラジオを聴くことが増えました。 ガジェットも提供されるようになって、 ブラウザを立ち上げなくても ラジオをチューニングできるように。 iPhone アプリの提供があったのですが、 現在は 『ラジ朗』 のみで、 公開されてわずか1日で、 セキュリティの強化により もう一つのアプリ 『iRadiko』 は聴取不可に。 ラジオやテレビには 「エリア制限」 ていうのがあってその影響のようです。 古くは到底受信できない東海エリアとの絡みで、 ナゴヤでの野球放送はほとんど 関西でのタイガース中継が見られませんでした。 最近 大阪に戻ってきた 妹は6年間関東にいてましたが、 FMはやっぱり関西の方が断然イイと言います。 こっちに戻ってきてやっぱ 802なんかを聴いてるようです。 リスナーがいなければ広告も成り立たないのは 放送業界の悩みどころ、 広告料収入が目減りしている昨今では、 あえて地域の枠を取っ払った方が、 新たなビジネスチャンスが 生まれるのではないかと思いますが。。。

区切り

人間には区切りを つけないといけないときがある。 何かをやめるときが区切りと思うが、 スタートするのも区切り。 キリのいい数字が通過点というよりも、 金字塔となることが多い。 今日いるべき場所に立てなかった 金本知憲 選手の姿があった。 なぜかゲーム前から中継した毎日放送、 胸騒ぎがするテレビ観戦。 来るべき瞬間を伝えた毎日放送の放送席、 亀山努 氏がかなりビビっていた。 横浜スタジアムのスターティングラインナップの コールはビジターにやさしく、 コールのたびに応援団の ヒッティングマーチがなり響く。 今日のスタメン4人目のコールのあとは、 「鍛えたその身体〜」ではなかった。 これからは金本という偉大な選手のプレイを どれだけウマく勝利につなげられるか。 ぜひこれからも 虎次郎 を楽しませてほしい。 そして今日から 新しい 金本知憲 選手の野球人生が始まった。     

「月見る虎図」は何を想う??

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「美の巨人たち」 を観た!! そう今日は虎は昼に 星にやられちゃったので。 津和野にある 葛飾北斎美術館にある 1844年 「月見る虎図」 。 「八十五老卍」 の落款は、 葛飾北斎 が85歳で 描いたことを示す。 獰猛でない表情は まるでディズニーアニメのよう。 満月を見てうっとりの表情。 虎が遠く離れる月をなぜか垂直に空を見上げる。 月だけでなく 大宇宙と向き合う虎 は 「無限の彼方にさあ行くぞ〜」 って感じかな。 実は東京ディズニーランドにある 唯一の和食レストランは、 「北斎」っていう名があるそうだ。 スタジオジブリの 高畑 勲 さんの 『一枚の絵から 日本編』 って本に この絵が紹介されてるらしい。 地を掴む獰猛な爪や毛並み、 筋肉のしなやかさが漲る虎は、 猛獣たる日々を過ごしているはず。 でも月を見上げると自分のちっぽけさを、 感ぜずにはいられないそんな境地なのか。 思わず微笑む愛嬌のある虎。 「雨中の虎」   「雪中の虎」 とならんで、 北斎の宇宙的なスケールを感じさせる逸品だ。   

京橋の旨い蕎麦「庄八」

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虎次郎の地元の商店街。 京橋中央商店街にある 手打ち蕎麦屋さん。 その名も 「庄八 」さん。 蕎麦を本当に食べさせたいという 店主の気持ちが伝わる「そば」。 細麺の 「二八そば」 です。 北海道産のそば粉が使われています。 実はお隣が金物屋で 「小庄金物店」 というお店。 仕入過ぎたそば切り包丁で、 蕎麦を作ったのがそば屋を始めるきっかけだとか。 天ぷら盛りそば 1,200円 本当に「京橋」でこんな美味しいソバが 食べれるとは!! ぜひ一度喉越しの良さを体験してください。 ここの箸は五角形の塗り箸でした。 割り箸って実は漂白剤づけのモノが多いらしく、 といって国内産の間伐材の箸は結構値が張ります。 割り箸ってゴミになりますしね。 そういえば最近、 割り箸でないお店が増えていますね。 手打ちそば「庄八」 住所:大阪 市都島区都島南通2−4−21 電話:06−6921−0452 営業時間:昼>午前11時30分〜午後2時      夜>午後5時30分〜午後9時 定休日:月曜日 手打ちそば庄八のブログ