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黒虎のO

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「大阪タイガース」の ブラックユニでの 京セラでの三連戦観戦。 昨日は22点もとっちゃうゲーム。。 正直かなり疲れました〜〜。 両チーム合わせて30点ってラグビースコア! まさにお腹いっぱい   「魅せつけた」一戦 でしたね!! 24日が   「魅せたる!キャップ」 、 25日のは 「魅せたる!Tシャツ」 。 グッズ好きの虎次郎はマンマと三日通うことに。 今日の 「Dream Link絆Tシャツ」 も 当然もらいに行きますよ!!! ところでこの 「 大阪タイガース」 、 誕生時には 8人しかメンバーがいなかったらしい 。 契約を済ませていたのは 森監督 と選手8人。 藤村富美男 、 松木謙治郎 らは入団していたが、 了承した大学出の選手が相次いで 契約破棄を伝えてきたということで メンツ不足やったらしいです。 東京との対決には 「大阪」 は欠かせない。 球場を所有している阪神電鉄に結成を 呼びかけた のが今の讀賣の前身である 「大日本東京野球倶楽部」 です。 1934年のベーブ・ルース率いる 全米選抜チームの来日したゲーム、 甲子園での2試合興行で、 1万7000円のギャラで 7万円の収入、 阪神電鉄は まさしく「ボロ儲け」 ・・・・ 「野球はもうかる」 と印象づいていたということ。 ちなみに、 大阪タイガースだから帽子のマークは 「O」 、 一時期 「TO」 の組み合わせもあったようだが、 今回は黒帽子に黄色の縁取りに白い 「O」 。 書体が実にユニークだ! 分銅のようでもあり銭形のようにも映る。 「商魂」の前立てやったのかも知れませぬ。 キャップとTシャツを配って 京セラを満員にして興行的には大成功! タイガースは 今日勝って三連戦勝ち越しを目指す。

アヴァンスしーとに行ってきますた!

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お盆に行なわれていた 京セラドームの阪神VSヤクルト戦。 あのファールグラウンドに出っ張ってる 「アヴァンスシート」 に行ってきました。 こちらはデスク付きの 「アヴァンスシートA」 。 こちらは8,000円です。 マッサージチェアのようでもあり、 深夜バスの スーパープレミアムシートを思わせる。 ちなみに虎次郎は「B」で6,000円の席。 ネット裏の ロイヤルシート は 7,000円だからお得感があります! ヘルメット、ゴーグルに そしてグローブが貸し出されますが、 完全装備の人は居なかったな〜。 虎次郎の完全装備姿はちょっとコワ過ぎるので、 アップを控えときます(=ω=) ヤクルトのバッティング練習中は、 防護ネットが前に置かれていたので、 ちょっとユッタリと・・・ 青木 はやっぱりカッコいい。 ファン急増中の 鬼崎くん 。。。 出場機会はなかったけど、 レフトとのキャッチボールのたびに ミルミル軍の女性ファンから    歓声があがっていました。 試合前には トラッキー が来てくれて、 虎助は持って来たボールに サインをもらっていました。 トラッキー 阪神Tigers 1985  なかなかオシャレなサインですね。 それにしても器用に・・・ 「ラッキーちゃんからももらってペアに」と 甥っ子に勧めてみたのですが、 彼はトラッキーだけで大満足だったようです。 平野んのスリーベースヒット あり、 平野部のボード も三塁に滑り込んだあと、 おっさんTVにばっちし 虎次郎が映り込んでいた模様。 携帯メールでいろんな方から報告を頂きました。 アニキのプレイストップの天井弾! 打ち直してホームランにするところが流石です。 ヒーロインタビューの掛け合いもオモロかった。 川端慎吾の落球がゲームの流れを変えましたね。 1985年の バックスクーリンの前日の、 河埜和正の運命を変えた 世紀の大落球 を思わせる・・・・ くれぐれも 「ボールから目を離さないでください!」    お互いに。。。。 新井さんのファールが飛び込んだときは、 胸元から突然現れる打球にヒヤヒヤ(汗) 緊張感の漲るシートでしたよ。

金しゃち 四百年

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徳川家康をはじめとした 大名道具がずらりとならぶ 「徳川美術館」 。 あの国宝「源氏物語絵巻」も所蔵する。 玄関をはいると 信長、秀吉、家康 の顔出しがならぶ。 家康の顔出しは 「三方ヶ原の戦い」 で、 歴史的大惨敗であり唯一の敗戦の後、 浜松城に戻った家康が苦渋の表情を描かせた。 「顰像 (しかみ像)」が置かれてるのがオモシロい。 1610年(慶長15年)閏二月に始められ、 ちょうど四百年の節目の名古屋開府。 「大名古屋城展」 がおこなわれていました。 あの金鯱は1945年3月に 米軍の名古屋城空爆を懸念して、 天守からおろし地中に埋めるよう 手はずを整えていたのですが、 引き下ろしの作業中に 焼夷弾攻撃に遭い天守は炎上、 猛火により鯱は溶解したのだそうです。 焼け跡に残ったのは金の固まりで、 戦後進駐軍に接収され、 後に名古屋市に返還されたそうです。 こちらが 金鯱の鱗の破片 。 進駐軍の接収からひた隠しされ、 厳重に保管されていたものです。 月夜に浮かぶ名古屋城の金鯱。 二代 歌川広重 の 「諸国名所百景 尾州名古屋真景」 っての。 安政6年(1859年)12月に描かれた。 那珂川町馬頭広重美術館 に所蔵されている。 天守にかぶりついているようで、 愛嬌のある浮世絵も展示されていました。 「天下様でもかなわぬものは  金の鯱ほこ あまざらし」 東海道を行き来する旅人が、 豪華な金鯱を雨ざらしにしている 尾張の殿様の威光に 感激した歌が残っています。 徳川慶勝(尾張家14代)撮影  名古屋城金鯱  それだけに尾張の人は 名古屋城をなんとか守りたかったんでしょうね。 いま 本丸御殿を復活 させようとガンバってはります。 名古屋城本丸御殿の復元に向けての シンボルマークってのも登場しています。 金シャチと本丸御殿の屋根 を イメージしてってなんだけど、 胡麻油であげたエビフライみたい。 なんかウマそ。。 ところであの初代金鯱の燃えがら。。。 1967年に6.6キログラムの金塊として 大蔵省から名古屋市に返還され、 実物の20分の1の金鯱と 尾張藩の略章でもあり市章になった 「丸に八の字」 の金の茶釜に姿を変えています。 茶釜には環の ところに小さな鯱が見えます。

龍虎の庭?「徳川園」

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久しぶりにおとずれた 「徳川美術館」 に隣接する 「徳川園」 。 もともとは江戸時代初期の1694年に、 尾張藩の二代目藩主であった 徳川光友 が 建てた「大曽根別邸」が元になっている。 あの龍の伏魔殿がある JR最寄駅「大曽根」に ほど近いところにあるのが 池泉回遊式の日本庭園。 虎次郎が愛するタイガースが1992年、 燕軍とシーズン終盤までペナントを競った。 ナゴヤ球場観戦をもくろんで 名古屋の地に立ち寄った時には、 日本庭園なんか??ちょっと記憶にない。 隠居所であった の敷地は当初は約13万坪、 光友の没後は尾張藩家老職に譲られた のだそうです。 園に入ると名古屋開府四百年キャラの 「 はち丸 」の庭園灯が迎える。 窓口で 名古屋城 + 徳川美術館 + 徳川園 が 1500円で見て回れる 「 はち丸手形 」 を勧められた・・・・ 「12月まで有効だから  また名古屋城来るでしょ」と 「9月には名古屋来ます」って虎次郎。 9月のナゴドのチケをキープしているので、 思わずそう答えてしまったけど。 ホオズキ の鉢植えがならぶ 「 虎仙橋」 。 「虎の尾を踏んではいけない」 ことから 「川に足を踏み入れてはいけない」ことを 連想させている渓谷 「虎の尾」 にかかる。 「龍虎」 があちこちに鏤められている庭園、 この地を営んだ第二代 徳川光友 の諡號は「瑞龍院」 。 1931年に邸宅と庭園を名古屋市に寄付したのが、 十九代 徳川義親 は マレーで虎狩り を行ったのに因んで、 「虎狩りの侯爵」 と呼ばれていたそうだ。 虎は狩られるって・・・・トホホ。 庭園には二つの滝があるが、 その一つが 「龍門の瀧」 。 鯉が滝を登って龍になったという 登竜門の形式が再現されたもの。 この滝の石は 徳川光友 が江戸の下屋敷に建てた 「 戸山山荘 」 から運んで来たものらしい。 現在新宿の 戸山公園 となっているところに、 ミニ東海道を再現して殿様遊びをしていたとか。 海に見立てた水面の周りに見どころを配する 「龍仙湖」 の奥にかかるのが 「西湖堤」 で、 中国杭州の景勝地 西湖の湖面を 直線的に分ける堤防を縮景したもので、 広島県の 「 縮景園 」 のそれとよく似ている。 広島「縮景園」 「虎の尾」 を奥入ると 「大曽根の瀧」 。 三段の滝にはそれぞれ水しぶきに個性があり、 瀧を

ナゴヤの洋館をたずねて 名古屋市政資料館

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熱射のなか虎タオルを片手にめぐったため、 行く先々で「大阪からですか」と、 めざとくチェックされました。 「ドニチエコきっぷ」 でバスを使って、 かなり楽をしたつもりなんですがね。 決戦の地に達した時はすでにグッタリでした。 洋館めぐりレポもこれが最終回 ・・・・ ナゴヤ赤煉瓦 「名古屋市政資料館」 。 1922年から ながらく 中部地方の司法の中心として、 その役割を担ってきた建物です。 1984年に国の重要文化財に指定され、 1989年から名古屋市の公文書館として、 広く公開されるようになりました。 外観は赤い煉瓦と白の花崗岩を組み合わせ、 ネオ・バロック様式 というもので、 荘厳なイメージを放っていました。 車寄せの上には神鏡と神剣を シンボル化した装飾がされていて、 「公正な裁判」を表現しているそうです。 ステンドグラスのデザインも 「ハカリ」 。 いたるところに 大正期の一流の技法が見られます。 中央階段室の柱の 下部分は大理石ですが、 上部分は 「マーブル塗り」 。 漆喰に大理石模様を描いたもの です。 法定の復元展示もありました。 こちらは明治憲法下の法廷です。 裁判員制度にもとづいた法廷も。 こちらは「 名古屋市庁 と 愛知県庁 」です。 シャッ チーな建物たち と紹介したのは こないだの遠征でした、、、 近くには 「愛知県庁大津橋分室」 があります。 「ナゴヤの洋館をたずねて」の旅は、 ここを起点にスタートしました。 愛知県信用組合連合会会館 として 使われていたのを、 1957年に愛知県が引き継ぎ、 以後半世紀あまり県庁分室としての 役目を担っているそうです。 ゴシック風の付け柱のある階段塔が凛々しい。 「ドニチ」なので外観のみ。。。 おとなりは 「伊勢久ビル」    (1930年の建造 ) 伊勢久 株式会社 は創業は江戸時代の 1758年の薬問屋さんです。 昭和初期に流行した アメリカ風スパニッシュ様式 。

ナゴヤの洋館をたずねて 旧豊田佐助邸

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発明王 豊田佐吉 の実弟の 豊田佐助 の自宅 。 「橦木館」 と同じように 洋館と和館、庭園からなる大邸宅です。 豊田ファミリーの邸宅、 当時は長塀町に佐吉邸、 白壁町に喜一郎邸と利三郎邸がありました。 現存するのはこの佐助邸のみだけだそうです。 外装は白色の小口(こぐち)タイルで、 均質な素材の磁器タイルが用いられているそうです。 玄関ポーチの床もタイルで仕上げられています。 洋館の1階には応接間が3部屋もあります。 そのうち玄関左の重厚な雰囲気の洋間には、 蓮の蕾の形の照明 が粋を感じさせます。 漆喰 天井の四隅に設けられた換気口には、 鶴が羽を広げ、亀が組合わさった 「とよた」 の文字をデザイン。 かなり佐吉さんはこれが気に入っていたようで、 洋館の2階の座敷にも 同じデザインの襖絵があるそうですが。。。    みつけられませんでした。 西側の木造2階建の和風座敷で 構成する和館がつながっていました。 「主屋を和風の建物とし、  接客応接の場として洋館・洋室を  付設したものが多くなっています。  しかし、こうした一般的な 傾向に対して、  三井、三菱などの大財閥の邸宅や、  それに倣った旧諸戸邸などでは、  洋館を主屋とした邸宅を構えています。  この豊田佐助邸の構成は、  新鋭実業家の心意気を示すもの    であったと思われます」   『東海の近代建築』より 三菱など旧財閥による 豪奢な洋館中心の建築に拮抗したつくりは、 佐助の志を示すモノだと評されているそうです。 おとなりは陶磁器を輸出する 貿易商の邸宅 「旧春田鉄次郎邸」 。 創作フランス料理 「デュボネ」 があり、 この日は結婚式をやっていて 「見学者ゾーン」も見られませんでした。 八×八で末広がりやしな〜〜(・ω・)v