2015年5月24日日曜日

関大 天六からの訣別

発祥の地からの訣別をした関西大学
大阪市北区鶴野町で
あらたな拠点づくりをされるとか…
「関西大学は明治 19(1886)年に
 夜間の法律学校として創立されました。
 昭和4(1929)年に開設した 
 天六キャンパス(旧称:天六学舎)では、
 この伝統を受け継いで長らく夜間教育が行われ、
 数多の優れ た人材が輩出しました。
 しかし、時代の趨勢から、
 平成6(1994)年4月には第2部(夜間部)の
 全学部を千里山キャンパスへ
 全面移転することになりました。」…

あんまり
関西大学のことは知らないのです。
いやホントに(TдT)
校門の表札も
すっかり剥がされておりました。
門柱をみると照明器具をはめこんだ、
アールデコだったようですが・・・
この外壁に想いを寄せるのも、
あと少しです。
よく見ると煉瓦塀だったようですね。
近くにはモダンビルがならぶ。
この界隈は知の発信地あったのだと。
マチの公民館的存在「豊崎東会館」、
かつての名は大阪市立心華婦人会館
2階窓下の台形の凹み
なかなかオモシロイ。
ここにもコンクリートブロックの台座。

おとなりは
もと「大阪市立豊崎勤労学校」。
勤労学校は男子児童向けで、
心華婦人会館方は女子児童向けでした。
豊崎勤労学校には木造工場が併設で、
家具・玩具の木工、塗装などの
職業実習が行われていたそうです。
一般の学校が夏休みの時期には、
近くの学校の机や椅子などの修繕に
出向いって行ったそうです。

就学者には衣食が与えられていたそうで、
実習で得た代金や製品の売り上げは
児童に支給されたとか。
一部は貯金させて卒業後の資金づくりも…
修学資金だけを給付したり、
貸し付けたりする現在の状況とは、
隔世の感がありますが、
見習うとこがありますね。 
さくら色に塗られたきれいな近代建築。
今は「みおつくし福祉会大淀寮」とも
称されていますが、
もとは1926年建設の長柄共同宿泊所
共同宿泊所とは、
単身低賃金労働に提供された
安価な宿泊施設のことをいいます。
八角形の飾り窓、その下の幾何学的な窓飾り。
当時のスラム政策への意気込み、
建物ツクりからも感じられますね。


関西大学 天六キャンパス学舎
建築年:1929年(昭和4)
構造 :鉄筋コンクリート造り4階、地下1階
設計施工:島田建築事務所/大林組

大阪市立心華婦人会館
→豊崎東会館
建築年:1926年(大正15)
構造 :鉄筋コンクリート造り3階

大阪市立豊崎勤労学校
→おおよど会館
建築年:1925年(大正14)
構造 :鉄筋コンクリート造り3階

長柄共同宿泊所
→大阪市立大淀寮
建築年:1926年(大正15)
構造 :鉄筋コンクリート造り3階
設計施工:大阪市営繕課/松村組

天満紡績の赤レンガ

環状線で京橋から大阪駅に向かうとき、
よく見える天満の赤レンガ。
NKCの旗がはためく…
そして「中西金属工業」の文字。
かつてあった「天満紡績会社」の
工場棟として明治時代に建てられたもの。
改装された本社棟内部
 (中西金属工業㈱HPより転載)

ところで今使っておられる中西金属工業、
自動車関連をはじめとした産業用機械、
電気製品の心臓部を担うといわれる
ベアリング・リテーナーをはじめ、
自動車生産ラインなどの生産ラインのコンベア、
そしてサッシなどの住宅部品を作ってる会社。
天満紡績会社
1888年(明治20)創業の紡績会社で、
後に“綿の王”といわれた谷口房蔵
経営する大阪合同紡績への合併を経て、
東洋紡の源流のひとつとなった会社。
天満紡績といえば…
日本で最初に女工らによるストライキ
行われたことで知られています。 
サッシが入替えられ2階建てのかつての工場は、
事務所として快適に使われているそうです。
反対側に建っているのは、
かつての天満紡績の事務所棟。
1階の壁面はコンクリートブロック積み
2階はモザイクタイル貼り仕上げ。
昭和初期に現在の外観になったのだそうです。
コンクリートブロックは
明治後半から大正期にかけて、
煉瓦や石に代わる組積造建築の建材として
売り出されていたそうです。
ただ現存する…
コンクリートブロックを用いた例は、
神戸市垂水区の移情閣くらいとかで、
あまり他に例がないとのことです
「1 階が石造風、2 階はタイル張り、
 屋根が寄棟造桟瓦葺という和風づくり。
 天井が高く、階段は急勾配、
 手すりまわりの古風な意匠などに、
 明治の香りが漂う。」のだとか…
 ぐるりと路地をまわると赤レンガが続く。
建物内部は柱の数が多く、
上部はV字型で2階床を支えているそうです。
 壁面のアーチがなんともいい感じ。
大阪歴史博物館から歴史的建造物指定の
希望の有無を問われたことがあるそうですが、
この指定を受けると内外改装など
工事を制限されることから辞退されたとか。
亀裂の入っているトコロもあるので、
大事に遺してほしいものです。
 なんともいい感じの組み合いなのでした。

このブログは中西金属工業株式会社のHP
明治生まれ赤レンガ館、いまも現役
  を参考にしました。

『百日紅』浮世絵伝〜北斎「美人愛猫図」


美人愛猫図(びじんあいびょうず)
葛飾北斎 画、絹本着色、1幅、江戸時代

百日紅』を観たのは朝イチだったので、
天王寺公園内の大阪市美でやってた
シカゴから里帰り日本初公開の
いつもチェックしてる「美の巨人」でも
これは二度と見れんから行っとこう…
と思っていたので(・ω・)v
浮世絵の展示ってとにかく・・・
立てこんでてモノも小さいので、
大々行列だろうなと思っていたのですが、
意外と日曜日なのにゆったりと観れました!
6月21日までやってはりますよ。
で…北斎の「美人愛猫図」を
愛猫図とあるが愛らしい??
ただ猫は年老いているように見ゆる。
貝殻を砕いた胡粉にて白粉を
はたくように何度も薄く重ねた白肌。

対峙的に女性に大事に抱えられた猫は、
お世辞にも可愛くなく不気味な風貌。
女性に目線を戻すと愛おしさより哀れみ、
もの憂えげで寂しそうに見える。
こちらは磯田湖龍斎同題の、
美人愛猫図》(東京国立博物館 蔵)。

『源氏物語』「若菜 」での物語、
女三の宮」の見立になっているお題。
女三の宮を題材した浮世絵は、
数多くあるらしいそうですが、
北斎とはちょっと構図が異なっています。

「女三の宮」での猫の登場はこんな感じ…
蹴鞠の遊びで疲れた夕霧と柏木が
寝殿西面の階(きざし)
腰掛けて休んでいたちょうどその時、
首紐の付けられた小猫が
大きい猫に追いかけられて飛び出した。
首紐は御簾の端を捉え、
ちょうど女三の宮が立っている前の
御簾を跳ね上げた。
柏木の目に源氏の正室となった
女三の宮の姿が飛び込んできたという。
女三の宮と猫鈴木春信
 (ボストン美術館 蔵)

こちらの猫にも赤い長紐がはっきり。
美の巨人」解説 河野元昭さんによると、
北斎は光景を写実的に描いたのではなく
源氏物語にある物語が埋め込まれていて、
そこには見たままを写し取るのではない
芸術家としての魂を注ぎ込まれていると…
版画ではなく肉筆画であるからこそ
北斎の筆致がたどれるというものなのです。

もう一つ虎次郎が気になったのは、
様々な太さの異なる線」…
着物の衣紋の筆致に多彩さに驚嘆しました。

葛飾北斎という男は、
贅沢とは無縁の生活を送っていたそうで、
ただひたすら絵を描いていた姿は、
映画『百日紅』にもたびたび登場しました。
全てのエネルギーを絵に注いでいたそうで、
ポピュラーなお題「美人愛猫図」でも、
特別な猫を登場させたのだと思います。
「北斎」
江戸時代を代表する稀代の浮世絵師、
五十五歳。本名は「鉄蔵」。
人気絵師としての名声を
不動のものとしているが、
権威や金銭には興味がない。
絵の肥やしになりそうな場所に出かける以外は、
部屋でひたすら絵を描く日々を送っている。
『百日紅』映画パンフより


磯田湖龍斎(いそだ こりゅうさい)とは?
はじめ鈴木春信の影響をうける。
安永年間(1772-81)に独自の作風の美人画で人気作家となる。
法橋の位をあたえられた晩年は、版画から肉筆画に転じた。
名は正勝。通称は庄兵衛。別号に春広。
作品に連作錦絵「雛形(ひながた)若菜の初模様」など。


《雛形若菜の初模様 蔦屋内しほきね》
 磯田湖龍斎 画

2015年5月23日土曜日

『百日紅』浮世絵伝〜歌川国直


二美人図》歌川国直 画, 双幅
 (1830-54年ごろ 東京国立博物館)

浮世絵の“浮世”というコトバは、
昔の仏教用語の一つ。
はかない世、苦界、無常の世
ということを指しています。
江戸の町人たちは、
喜びと楽しみに満ちた現世で、
それぞれに置かれた
ポジションで満喫していました
そんなことをイマに伝えるモノ、
それが「浮世絵」というものなのです。
浮世床』挿絵 歌川国直 筆

市民生活をあざやかに描き出した
江戸後期の代表的な滑稽本に
浮世風呂』という作品があります。
作者 式亭三馬(しきてい さんば)は、
自身も古本屋を営んでいた戯作者。
もう一つの代表作が『浮世床』、
その挿絵を描いたのが国直その人です。

国直は信濃国の生まれ、
初めは明画を学んでいたようですが、
葛飾北斎に魅かれて豊国風を学び、
初代豊国の門人でありました。
師名「」を字を許されて
歌川国直と称するようになりました。
関三十郎 七役相勤申候
忠臣蔵の七役を演じる
関三十郎の役者絵

役者絵を得意としただけに、
場面設定や雰囲気描写にも
手を抜かないので絵草紙類では、
国貞と比肩する非凡さを発揮!

判官が切腹の処分を申し渡され、
すでに覚悟を決めていた判官が
由良之助を待つ場面です。
浮絵忠臣蔵・四段目之図

北斎の得意とする「一点透視法」、
中央奥の判官を注目させて、
奥行きの深さはまさに絶妙です。
歌舞伎では唯一このシーンでは、
遅れてきた客や弁当の差し入れなどの
外部の出入りを遮断するという、
静寂で厳粛なシーンなのです。

題目の“浮絵”は浮世絵の種類の一つ、
西洋絵画から取り入れた
遠近透視図法を用いられていて、
焦点が画面の奥にあるのです。
いわゆる「消失点」に向かって
奥へと立体感が構成されています。

浮絵忠臣蔵・十段目之図

国直
新進気鋭の絵師、十九歳。
歌川一門の門弟だが
北斎を尊敬している。
芯のある女が好みで、
お栄に対して好意を寄せる。
『百日紅』映画パンフより


最後に・・・
大阪市立美術館で里帰りの逸品を…

月下の庭三美人図》歌川国直 画
(シカゴ ウェストンコレクション
 「肉筆浮世絵 美の競演」より)

2015年5月21日木曜日

『百日紅』浮世絵伝〜善次郎こと渓斎英泉


「池田善次郎」こと渓斎英泉
傘に美人(瓢模様)》…

粋な江戸の装いを引き立たせる蒼。
北斎ブルー」とも呼ばれる
青い鉱物顔料・ベロ藍ってのです。
江戸後期にオランダを経由して
日本に入ってきた化学顔料で、
ベルリンで最初に作られたもの。
ベルリン藍がなまって「ベロ藍」
呼ばれるようになったと言われています。
玉屋内花紫

浮世絵ってファッション誌のようなもの。
流行に敏感であるということは、
浮世絵師は当時の工業デザイナーでも
あったように思います。
浮世絵の技術が進んだ江戸後期は、
芸術というよりも商売の道具でした。
美人東海道のうち 日坂駅 廿六

北斎や広重な浮世絵の巨人たちを、
歌川国貞渓斎英泉のように、
のちの時代には名前さえも
忘れ去られる存在の浮世絵師たちが、
浮世絵という芸術の裾野
しっかりと守ってくれたお蔭にて、
いろんな趣味趣向が求められる
イマに至って“美術史的”な
評価を受けつつあるようになったのだと…
当世まつの紫 傾城音羽の滝 
       新内なかし

英泉の画風って???
マジメな学者たちを悩ませていました。
写楽なら役者絵とか、
歌麿なら美人画といったくくりがしづらい。
英泉は商売のための量産タイプ。
江戸八景 両国橋の夕照

風景画の構図もなかなかヨスです。
浮世絵にかぎらず展覧会で絵をみると、
どこか気むずかしく静かな
仄暗い場所で鑑賞させられる
ただ、浮世絵が生きていた時代は、
枕絵”とも言われていたのですから、
恭しくは扱われてはいなかったということ。

契情道中双録 尾張屋内 満袖

浮世絵らしくないって評価。
浮世絵戦国時代」にあってその多くは、
まさに“使い捨て扱い”だったのですから、
至極当然なのかもしれません。

たった200年前の話ゆえに、
新しいものをただ追い続けてきた

日本の歩みは駆け足過ぎだったのでは?

在外に遺る浮世絵師たちの業績に
再び日本で触れると、
古めかしくない新しさを感じます、

遠い昔と思っているけど…
実はつい昨日のような極々最近の
粋な江戸”が甦っているのかも・・・
「池田善次郎」
北斎宅の居候、二十三歳。
無類の女好きで、以前は武士だったが、
何らかの事情で絵師に転身。
人体を正しく描くほどの画力はなく、
お栄には「ヘタ善」と呼ばれている。
後に渓斎英泉の画号で大成、
人気絵師の仲間入りを果たした。
『百日紅』映画パンフより

このブログは 和田彩花 "浮世絵10話"
第八話 渓斎英泉「玉屋内花紫」
を参考にしました。