2015年5月5日火曜日

ヒロシマ爆心地から2300m〜広島東照宮②


広島東照宮のつづきです。
一間社流造 唐破風付 銅板葺の本殿。
当時桧皮葺であった華麗な社殿は焼失し、
灰塵に帰しましたそうですが…
なんとご神体は焼失を免れ無事だったとか、
まさに大権現の霊験あらたか。
1984年に再建されたものです。


創建当時からある手水舎
(てみずしゃ)
桃山時代の建築様式をよく伝えていて、
御宝前、東照宮、慶安元年卯月十七日
という文字が刻まれています。
卯月に建てられたので蛙股には、
月と兎」の装飾彫刻があでやかです。
こちらは1979年に
解体修理漆塗装されました。
本地堂(ほんじどう)」。
徳川家康の本地仏である薬師如来
当初祀られていましたが、
明治以降は神輿舎に転用されたもの。
四方の中備(なかぞえ)に極彩色の蛙股。
こちらは賢者と牛??
なにかの中国の故事に
由来するものかもしれません。
白馬

松の枝ぶり。
そして葵の御紋が見て取れます。

神域でもある
二葉山は権現山とも呼ばれていて、
頂には「二葉山 平和塔」があります。
訪れなかったのですが…
原爆の犠牲者の冥福を祈るため、
1966年に建立されたものだそうです。

広島東照宮の境内社とされている
金光稲荷神社」。
二葉山は、日本最大規模の
シリブカガシの群生林です。
どんぐりの木の一種で、
暖かい地に育つので
群生林であることは貴重。

シリブカガシの木炭は
珍重されたこともあって、
殿様がシリブカガシを保護、
そのことで群生林が形成されたとか。
山頂の奥宮まではおよそ500段あって、
朱塗の鳥居120数基続きます。
京都の伏見稲荷大社を思わせる風景…
広島一円から多数の参詣者があるそうです。 
「コハ今後生キノビテコノ有様ヲ 
 ツタヘヨト天ノ命ナランカ 原 民喜」
2010年8月6日に建立の「原爆65周年追憶碑」。
原爆文学家である 原民喜さんは、
原爆投下された日の翌日を
ここ広島東照宮で過ごしたそうです。

『原爆被災時のノート』にはこうあります。
 (前略)
 東照宮ノ欄間ノ彫刻モ石段ノ下ニ落チ
 燈籠ノ石モ倒レルアリ 
 隣ノ男 食ヤ水ヲ求ム 
 夕グレトナレバ侘シ 
 女子商ノ生徒シキリト水ヲ求ム 
 夜ハ寒々トシテ臥セル地面ハ固シ 
 翌朝目ザメテ肩凝ル
 (中略)
 石段下ノ涼シキトコロニ 一人イコフ
 我ハ奇蹟的ニ無傷ナリシモ 
 コハ今後生キノビテコノ有様
 ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ
 (後略)


原さんはこの位置からどんな
ヒロシマを見つめたのだろうか。
同じ場所に立って想像とは、
大きくかけはなれているであろう
“リアル”なヒトのイノチが
往き交っていたのだと思います。

『五年後』 原 民喜
竜ノ彫刻モ
高イ石段カラ割レテ
墜チ
石段ワキノ チョロチョロ水ヲ
ニンゲンハ来テハノム
炎天ノ溝ヤ樹ノ根ニ
黒クナッタママシンデイル
死骸ニトリマカレ
シンデユク ハヤサ
鳥居ノ下デ 火ノツイタヨウニ
ナキワメク真紅ナ女

ヒロシマ爆心地から2300m〜広島東照宮①


広島駅の新幹線口から北にある
二葉山の山麓に立つ「広島東照宮」。
広島藩主 浅野 光晟
(みつあきら)によって、
広島城の鬼門に造営されたのは、
徳川家康公薨去後33年忌にあたる

慶安元年(1648)のことだったそうです。

光晟の生母が家康の第三女、
振姫(ふりひめ)であったことそうで、
祖父にあたる徳川家康を敬慕されていて、
立派な社殿は、
「二葉山山麓に位置し、
 観望の美麗なるは、
 毛利氏広島に築城以来、第一のもの」
と賞賛されていたと伝わります。

1945.8.6はここも例外なく
熱風によって社域は焼失に期しました。
日光東照宮での
陽明門に相当する唐門は、
原子爆弾の爆風で全体が北東に
少し傾いていたのですが、
2008年から4年と歳月をかけて、
創建当初の華麗な姿を取り戻しました。
両脇に取り付けられているのは、
鉄拐(てっかい)蝦蟇(がま) 
両仙人の装飾彫刻は、
地元広島の蒔絵作家で日本画家の
荒木秀峰さんらが復活されたものです。
こちらが「鉄拐仙人」です。
李鉄拐仙人のエピソードは、
こんな感じです。

ある時、華山で老君に会うとして、
体を置いて魂だけ行きますが、
その際弟子に体の番をさせたそうですが、
七日経っても帰らなければ体を焼いてもよいが、
それまでは決して動かさないようにと…
ところが六日目に弟子の母親が死んでしまい、
家に帰るため鉄拐の体を焼いて帰ってしまいます。
七日目に帰ってきた鉄拐、
戻る体が焼かれて困ってしまいます。
そんなところに道端で乞食が飢えて倒れていました。
その乞食の体に入ってやっと再生できました。

この彫刻でも、
魂の抜け出る様子が彫られています。
京都市の彫刻師が彫ったケヤキ板に、
西本願寺の絵師である
舟岡恵凡さんとともに彩色した荒木さん。
日光東照宮で学んだ江戸時代初期の技法で、
ルビーなどの鉱石を砕いた
天然の岩絵の具による重厚感ある色合いで、
被爆後67年ぶりに復活されたのです。

北面の彫刻の極彩色もみごとに。

唐門とは対照的に和様の構えの
翼廊(よくろう)は左右十間づつの切妻造。
戦後は桟瓦葺となっていたのも
本瓦葺となって勇姿を取り戻しています。

せっかくだから「蝦蟇鉄拐図」。
雰囲気がかなり異なりますが…
こちらは京都 知恩寺につたわる
元時代に顔輝(がんき)が描いたもの。

鉄の杖を胸元にたてかけた李鉄拐は、
ちょうど魂を吹き出した所。
もとの体は脱けがらに、
死色を帯び硬直し始めている様。
蝦蟇仙人は不老長寿を示す桃を持って、
肩に白いガマガエルをのせています。
生と死が対峙する仙人の姿として、
対として用いられる画題なのです。

このブログは中国新聞の記事
被爆経た仙人彫刻 復元 広島東照宮で修理中
を参考にしました。

2015年5月4日月曜日

ヒロシマ爆心地から900m〜広島旧大本営

日清戦争のころに置かれた
ヒロシマの「大本営」。
碑文は
明治二十七 八年戦役 広島大本営

日清戦争が本格化したこともあって、
1894年9月になり大本営が移されました。
当時 東海道本線は全通していましたが、
神戸から先は 山陽鉄道 が開通したばかり。
通信事情も良くなかったこともあって、
戦地により近い広島が選ばれたそうです。
広島城内にあった第五師団司令部の建物が
明治天皇の行在所とされていて、
東京から大本営が移されてきたそうです。

「大本営」とは戦時において天皇の
隷下に設置された最高統帥機関のこと。
(当時の絵葉書に復元彩色されたもの)

明治天皇の広島滞在は、
明治27年9月15日から
翌28年4月27日まで、
実に7ヶ月間に及んだのだそうです。
その後も建物は保護されていたそうです。
広島が原爆の投下目標候補になったのは、
大本営が置かれたことで日清戦争以後も
陸軍の拠点として発展し続けていた、
いわゆる「軍都」であったこと。
投下された日の天候云々の話はありますが、
候補地であったことは間違いありません。
兵器や糧秣、軍服などの工場が立ち並び、
軍とは切っても切れない都市。
軍都廣島」として
自他共に認められる存在だったのです
広島城には陸軍五師団がありましたが、
本土空襲が都市部や軍港でも
頻発していた時期に至ってもなお、
広島は空襲されない都市」に…
広島城の櫓も
一瞬にして灰燼に期しました。
原爆の実用化にめどが立った頃、
その威力を正確に調べるために、
投下候補地への
通常爆撃が控えられていたとか…
復元された二の丸表御門…
戦前の絵葉書に「大本営」の表札がありました。 
あぶなくないように注意してください
何気ない市観光協会の表札なのですが…
ヒロシマから未来に向けての
メッセージに思えてなりません。

ヒロシマ爆心地から1800m〜碇神社

広島城下最古の社とされる「碇神社」。
「此の地其の海辺なりし頃、
 社辺に大岩盤在り、
 太古よりしばしば船が難破せし為、
 地と海の神を鎮斎し奉る事に始まる」
とある創建の由緒。
京橋川の土手沿いにあった社は
八剣神社」。
広島城主 福島正則の治世を伝える場所。
当時はひどく洪水に悩まされていたそうで、
たびたび人柱をたてていたそうです。
正則はそれを不憫とおもって、
秘蔵の名剣八本を箱に納め、
地中深く埋めたことで堰き止められたとか
1617年(元和3)のことだと伝わります。
毛利輝元の治世には造営されますが、
福島正則の時には、
社領が没収され荒廃したとか。
八剣神社とは逆の運命をたどりました。
ただ、江戸中期の頃には地元白島の住民が、
海の神さま「大綿津見神(おおわだつのかみ)」を
氏神としてその維持に努められたそうです。
海浴思澤 万民楽豊穣」の文字。
広島築城前のまだこの地が海原であった頃、
ここへ他国船が来て碇をおろしたことから、
碇神社と言われるようになったそうです。
広島は太田川河口を埋め立ててできた、
いわゆるデルタ地帯に成立した都市。
白島がなまって…
”ひろしま”になったという説。 
実は俗説なのだそうです。

阿川弘之の『亡き母や』によれば…
白島のもとの地名は箱島
 太田川の三角洲の北辺に位置し、
 閉鎖的な芸州広島藩城下町の中でも
 特に因循閉鎖的な、
 それこそ箱で囲つたやうな
 狭い古くさい地域であつた…」という。
白島の地は爆心地に比べれば、
残留放射能は多くなかったようですが、
原爆投下直後に降った「黒い雨」。
白島には多く降り注いだそうです。

ヒロシマ1945.8.6
その瞬間だけでは済ませるものでは、
決してなかったものだと改めて感じました。

ヒロシマ爆心地から2300m〜工兵橋

旧広島市内唯一の吊橋「工兵橋」。
広島市東区牛田本町で
旧太田川から分岐している京橋川
その最上流から2本目の橋。

振れ止めのワイヤーが
水平近くに張ってあって、
その美しいカーブが
親しまれている点なのかも??
京橋川最上流には
「新こうへい橋」があって、
そこから眺めるとこんな感じ…
信州の渓流の吊り橋のようです。
新こうへい橋」は、
1973年7月架橋の「こうへい橋」を
1991年10月新たに架け替えられたもの。
でもなぜ“ひらがな”???
もともと「長寿園橋」という名が

用意されていたそうなのです。

戦後初期まで工兵橋付近の桜の名所を、
冠しようと思っていたそうですが…
名称について白島と牛田の両岸の
住民の間に紛争が生じたたそうです。
公平に」との意図を込められています。
かつて雁木タクシーからみた
通称「さぎ島」。
サギやカワウが巣を作っています。
中州には人や犬が渡ってこないから、
まさに「野鳥の楽園」になっています。
高層マンションや幹線道路、
そしてアストラムラインの高架たち、
コンクリートのはざまにある不思議空間。
工兵橋の話に戻ります。
現在の橋は1986年3月ですが、
最初に架けられたのは1933年(昭和8)。
中区白島北町と
東区牛田本町を結んでいます。
写真は現地の「原爆被災説明板」より、
1945年に米軍撮影が撮影したもの。
白島にあった陸軍工兵第五連隊
対岸の牛田の演習場への連絡橋でした。
原爆投下により白島地区は、
工兵隊付近を除いて全焼したそうです。
損傷が少なかったため大勢の被爆者が、
この橋を渡って避難したと伝わります。