2018年9月30日日曜日

松坂屋の理想郷〜揚輝荘⑥ 近代別荘建築の特徴とは?


明治期以降の近代的な別荘は、
賓客接待を目的とし、
都市近郊に構える形式
高原や海浜に構える形式
大農場経営を目的に
農場の一画に構える形式

揚輝荘は伊藤家本家
茶屋町から約5キロ、
1911年には電車 覚王山線も
開通していていましたから、
都市近郊における
賓客接待型の別荘」でした。

名栗の階段を上がり2階へ。

1階と同様にホールを取り囲んで
部屋が配置されています。





階段沿いには造り付けの
物入れが設えています。

車寄せの上の部分は図書室に、
三面に窓を設けてよい眺望。







旧応接室



支那の間」と呼ばれた
中国様式の寝室B

地下室と同様に、
工事途中で中国様式に
変更されたのはここです。

天井に鳳凰の彫刻



奥まったところに和のテイスト

畳敷きの和室がありました。



化粧室?

豪商伊藤家の当主である祐民が、
各界の名士との交流の場として
造営したのが揚輝荘でした。

ただ祐民にはもう一つの顔が、
社会事業と国際交流活動です。
いまはなき東園に
タイやビルマ・中国などの
留学生のための施設として、
愛知舎、衆善寮などを建設。

1940年に祐民が没した後も
その精神が受け継がれ、
時局が戦争へと傾倒するなか、
戦時体制とは思えない
近隣アジア留学生と日本人学生の
自由な交流の場でした。

単なる金持ち別邸ではない…
そこに揚輝荘の
オリジナリティがあるのです

このブログは
「揚輝荘と祐民ー
  よみがえる松坂屋創業者の理想郷 」
を参考にしました。

松坂屋の理想郷〜揚輝荘⑤ ジャータカの地下室へ


聴松閣には地下室があり、
そこにはブッダ前世の物語
本生譚(ジャータカ)」の
場面の一部が描かれている
空間が広がっています。

伊藤祐民は1933年のはじめ、
名古屋商工会議所会頭と
松坂屋の取締役社長を辞します。

社会事業に傾倒するのですが、
なかでも多くの時間を、
シャム(現在のタイ)、
ビルマ(現在のミャンマー)、
インドなどへの訪問、
そして日本への紹介に費やします。



西インドの
アジャンター仏教石窟群
第二窟に描かれた仏伝図
兜率天上の菩薩」の写し。
兜率天は釈迦になる前に
菩薩が過ごす場所で、
菩薩が中央に描かれています。

こちらは釈迦の
母となるマーヤー夫人が、
白象が胎内に入る夢をみた…
その夢占いの場面。
生まれる子が転輪聖王か
ブッダになると占い師から
説明を受けているシーンです。

地階広間の付柱には、
カンボジアの
アンコール・ワットがルーツ。

地階広間から饗宴場へ…

東側が半円形の舞台で、
ビロード式のインド文様緞帳
当時の意匠で復元されています。



こちら舞台裏

舞踏場西面には踊る女神像の
レリーフを頂くマントルピース

祐民はインド旅行中に
多くの写真を撮ってきますが、
そのうち特に気に入った
建物のデザインを選んで、
この地下室に散りばめたのです。

この場面は長谷川傳次郎
アンコール・ワットの写真集
仏蹟』にまったく同じ写真が
掲載されているとか…

聴松閣に訪れた友人・賓客に、
仏蹟巡拝の感動を、
熱く語っていたのでしょうね。

饗宴場の付柱の柱基には、
18世紀頃のインド・イスラームの
宮殿でみられる植物文様の
象眼細工が施されていました。

ヒマラヤの風景が
エッチングガラスが嵌め込まれ、
中央には造り付けのソファー。

揚輝荘主人遺構』という書物には、
「正面にみゆる
 雪嶺カンチェンジャンガ
 を写したる硝子彫刻にして
 外部の窓より採光し、
 夜のために照明が仕込んである。」

ガラスの裏側を覗くと…
地上からの光が降り注ぐ。

採光スペースの手前の
小区画にある女性像が
嵌め込まれたタイル壁。
ゴシック建築の
トレーサリーのよう…
インド仏教やヒンドゥー寺院の
祠堂入口でよくみられる姿態。

こちら地下トンネルの入口
今は失われていますが、
かつてあった「有芳軒」まで。
先の出入口は五色玉石貼りの
欄干と「聴泉窟」と彫られた
石盤で飾られていたとか…
防空壕ともいわれますが、
目的は不明なのだそうです。

聴松閣はかつては
祐民が仏蹟巡拝の旅から帰国、
ただちにインドでの
感銘再現に建設に着手、
と考えられていたそうです。

最近になって伊藤家や
施工の竹中工務店の資料から、
このようなことがわかってきました。
・仏蹟巡拝の旅に出発前に
 聴松閣の建設を計画
・当初は洋風・山荘風として設計
・地鎮祭後行うも起工を延期
・地下を大幅に設計変更

次回ブログで2階を紹介しますが、
工事途中で床から天井まで、
全体が中国様式に
変更されたそうです。


このブログは
「揚輝荘と祐民ー
  よみがえる松坂屋創業者の理想郷 」
を参考にしました。

松坂屋の理想郷〜揚輝荘④ 伊藤家の人びと


揚輝荘をつくった
伊藤祐民(すけたみ)は、
江戸時代から続く「いとう呉服店」
デパートメントストアにした人です。
現在の松坂屋百貨店の前身ですが、
1910年(明治43)のことでしたが、
まだ百貨店という言い方は
ありませんでした。


1910年 開店当日の「いとう呉服店」


明治維新150年の
パネルがありました。
十三代 伊藤祐良は、
安政の大地震を経験した人。

いとう呉服店上野店
安政大地震による火災発生で、
全焼してしまいます。

「質素倹約を第一に、
 犠牲的精神を持って
 本・支店が一体となって、
 気長く再建に
 努めなければならない…」
祐良は説いて、
同年の12月1日には
仮店舗で営業を再開したそうです。

「安政の大地震 仮営業の引札」

物資不足もあって、
開店当日から大賑わいだったとか…
引札には9月28日からの3日間は、
尾州本家から到着する品物を
景品つきで廉売するとあります。
十四代目当主の祐昌は、
20歳で家督を継ぎました。
幕末の動乱期を堅実な
手腕で乗り切るとともに、
明治期に呉服店を発展させた人。
商法会議所を設立、
初代会頭を務めるなど、
名古屋の財界で主導的な
役割を果たしました。
揚輝荘の内部へ…
玄関扉を開けて中に入ると、
輪切りにした大小の丸太
伴華楼2階書斎にも同じ
デザインがあるそうです。

そして階段のあるホールへ。
木材の表面が、
斧で荒く削った加工痕を、
デザインとして見せています。
与岐はつり」とも
名栗(なぐり)」とも、
山荘らしい雰囲気が
醸し出されています。
サンルームの西は広い食堂に…
今は喫茶室「べんがら
暖炉の周りにはゆかりの丸瓦。

いとう」の文字。



このブログは
「歴史の中の松坂屋 
愛知千年企業 江戸時代編」を参考にしました。