2015年3月4日水曜日

芦屋を駆け足にて① 芦屋市立図書館 打出分室

謎の洋館として知られる
芦屋市立図書館 打出分室」。
甲南女子大学さんでの研修の前に、
ランチ返上で芦屋を駆け足にて…
趣きのある扉には「松濤(まっとう)」とある。
美術品のコレクターであった
松山与兵衛という人が買い取って
当地に移築したと伝わる。
仏教美術の収納庫として使われたそうだが、
なぜ扉だけが中国風なのか
村上春樹さんのデビュー作
風の歌を聴け (講談社文庫)』で、
「古い図書館」として登場。
小川洋子さんの『ミーナの行進 (中公文庫)』では、
「蔓(つる)草が壁面を這(は)い、
 古めかしい両開きの扉には
 中国風の飾りがはめ込まれていた」とある。
敷地東寄りに建つ。
東と北の外壁は「ルスティカ
風」で
花崗岩が積まれているそうだ。

隅部は少し円弧状になっていて、
2連アーチ窓が配されています。
イタリア・ルネッサンス風とも…
移築されてきたのが
1930年ってことになってて、
芦屋市が買い取って図書館になったという。
分室のルーツは、
『芦屋郷土誌』(1988年)に
逸身銀行」の誤記とみられる
「逸見銀行」の記述があって、
これが通説となっていたそうです。


1、2階部分が現在の分室と酷似する
「東京貯蔵銀行大阪支店」
「大大阪画報」(大阪府立中之島図書館所蔵)より

ところが1990年ごろに、
大阪芸術大学の 山形政昭 教授が、
分室とよく似た
東京貯蔵銀行大阪支店」の写真を発見。
翌1991年には保存改修のメンバーだった
建築家の 姉川昌雄 さんが、
地籍簿上 角地にあったとみられるのに、
「逸身銀行」は両側を建物に
挟まれていたことが分かったのだとか。
文学ファンの図書室は
さらにミステリアスへ。

「芦屋市立図書館 打出分室」
??→旧松山家住宅 松濤館→
竣工年:1930年(昭和5)
改修年:1990年(平成2)
構造 :鉄筋コンクリート造2階建
所在地:兵庫県芦屋市打出小槌町2
【国 登録有形文化財】

神戸新聞 HP所載の記事を参考にしました。


※ルスティカ【rustica[イタリア]】
石造建築で、壁の表面を滑らかにせず、
目地(継目)を際だたせたり、石材面を突出させたり、
凹凸を目だたせて、
荒々しく力強い表情をもたせる技法をいう。
古代ローマ建築の一部にすでに現れていたが、
ロマネスク時代の中部イタリアの
城郭風邸宅に好んで用いられた。
ルネサンス時代のイタリア全土でパラッツォに使われ、
建築書などを通じてアルプス以北の
諸国でも大いに愛好された。石材のみでなく、
煉瓦造の壁のスタッコ仕上げにもしばしば適用される。
(「世界大百科事典 第2版』より)

2015年3月3日火曜日

「曖昧なままで答えを出さずに生きてた」

『娚の一生』を観た。
エンディングで流れるJUJUの
♫『Hold me, Hold you』のサビ。
「曖昧なままで答えを出さずに生きてた」…
曖昧なままの答えにあるうち、
それが恋なんでしょうね。
オッサンが何言うてんねんってか。

トヨエツ演じる 海江田 醇(じゅん)
年齢は52歳。
「人生の知能のピークは52歳だと、
 今は、言われています。
 もちろん、新しい英単語を覚えるとか、
 数式を覚えるなどの「新規性知能」は、
 18歳がピークですが。
 今までの経験などを積み上げて、
 何かを形作ることを意味する
 「結晶性知能」は、
 男性の場合は、52歳がピーク
 女性はもう少し早いでしょうか。
 雪の結晶のように、
 今まで降り積もったものを
 ギュッと知能としてまとめて、
 それをアウトプットできるように
 なるという意味では、
 男女とも50歳前後は最強なんです。」

心理学者の植木理恵さんは、
「色や風。視覚と空気で感じる映画」
と題したReviewを寄せている。
虎次郎演じる“手塚 潤(じゅん)
あと4歳上昇カーブってことやな。

祖母が登場する回想シーンに
染め重ねるたびに色がしっかと
色づくという“染色”の風景があった。
きっと恋も愛も…
人の人生は染め重ねていくことで、
しっくりとくるものなのだと。
そう感じさせる映画でした。

「曖昧なままで答えを出さずに生きてた
 ただ傷つけない 許されたい 
 冷たい過去が苦いけど
 抱きしめたい みつめてたい 
 あなたに出会って 心 溶けたよ」

JUJUさんが言う。
「出せずにいた」んじゃないと
プロデューサーに言われたとか。
「そんなヤワじゃない。
 自分で決めて、答えを出さないから、
 心がどんどん固くなっていたんだ」と。
だから・・・「出さない」

「抱きしめたい 見つめてたい 
 ただ傷つけない 許されたい 
 冷たい過去が苦いけど
 抱きしめたい みつめてたい 
 あなたに出会った 心 ほどけた

2015年3月1日日曜日

池田をあるく⑥ 池田銀行 本店

北摂、阪神間に展開していた
阪急系の銀行だった池田銀行元本店。
「池田をあるく」最後に観たのがこの建物。
小雪ではなくしっかりと…
吹雪いておりました。
石貼りのように見えるが列柱も含めて、
ほとんどがモルタル成形によるもの。
まさに左官さんイイシゴトされてます。

コリント式の列柱も草花の装飾も、
石ではないという程度としか、
わからないほどの技が冴える。
青空のもとで観たかったと思う。
全体としてかなり正調な新古典主義
内装は打って変わってモダンとか…
時間外だったので
中を伺うことは叶わなかった。
設計者は
戦前ヴィーン・ゼツェッシオンとか
ドイツ表現主義とかを
日本で実践したと名高い。
大阪の建築界重鎮である 片岡安
ともに事務所を開いていた 石本喜久治
重厚な中にも
ちょっと軽やかな感じを受ける…
改めてじっくり見据えてみたい。

「池田銀行 本店」
→泉州池田銀行 池田営業部
建築年:1952年(昭和27)
構造 :鉄筋コンクリート4階建
設計 :石本建築設計事務所(石本喜久治)
所在地:池田市城南2-16-16

池田をあるく⑤ 呉春の春


摂津池田郷 池田銘醸 清酒「呉春」。

織姫伝説の呉服(クレハ)神社と
伊居太(イケダ)神社、
そして文人画家 呉春ゆかりの
「本養寺」もある池田。
最盛期には38軒の酒蔵があったそうですが、
自醸しているのは今ではここ「呉春」のみ。

池田と松村呉春との関わりは、
司馬遼太郎さんの

天明の絵師』に見て取れますが、
愛妻を亡くした傷心で
池田の町に移住してきたのが
天明元年(1781年)のことだそうです。
翌年の春に近くの本養寺を訪れたとき、
池田の古称=呉服(クレハ)の里で
春を迎えたことに感銘したとか。
その時に月渓から呉春に改名したそうです。

「十二ヶ月京都風物句画賛」 呉春 画

のちに京都・四条に戻った松村呉春は
四条派画家の祖として晩成しました。

「牛若丸句画賛」呉春 画

まさに池田という土地は、
呉春に新たな春を予感させたのかも?

「牛若丸画賛」与謝蕪村 画

与謝蕪村は呉春の師匠であります。
いずれも逸翁美術館の持つコレクション。

※『天明の絵師』1964年は

2015年2月26日木曜日

池田をあるく④ 逸翁美術館

小林一三の雅号「逸翁(いつおう)
が冠された「逸翁美術館」。
「神さま 仏さま〜祈りの美術〜」
と題した特別展を観ました。
コレクションはもともとは
「雅俗山荘」に置かれていたのだそうですが、
一都市一美術館」をとの小林の理念のもと、
「池田美術館」の建設が計画されていた
この地に2009年10月に開館した建物です。
「雅俗山荘」設立50週年を期に新築。
「展示室・茶室・ホール・カフェという要素の配置の間に、
 アプローチの前庭・エントランスロビーに
 自然光を導き入れる中庭・エレベーターホールに
 隣接する中庭を織り交ぜながら、
 回遊性と奥行きを持たせた平面計画とした。」
 竹中工務店 TAKENAKA DESIGN WORKS vol.12より
せっ器質タイルに咲き誇る花、
マグノリアの花なのだそうだ
隣接するコンサートホールの名は
マグノリアホール」。
阪急グループのシンボル?
小林一三さん愛顧のもの??…
マグノリアとはモクレンのこと、
ちょっとイワレは解らなかった。
こちらは「池田文庫」。
宝塚新温泉にあった図書室が源泉と言われ、
上方役者絵やタカラヅカ歌劇
ポスターコレクションなどで名高いそうです。
神さま仏さま」の展示を…
那羅延天図像」と言われるもの。
仏さまの名前や霊験=効用をまとめたもの、
仏さんのガイドブックとも言うべきもの。
熊野本地絵巻
室町時代の御伽
(おとぎ)草子。
虎や狼も山神の命令により、
この王子を守護し養育するというシーン。
キリスト教の祈りに関する絵画も
展示されていました。

展示品の写真は
けーぜの「阪急電車でゆるゆるとろとろ生活」
逸翁美術館2015早春展
「神さま仏さまー祈りの美術」より転載しました。

2015年2月24日火曜日

池田をあるく③ 雅俗山荘

“ミスター阪急”と言われた
小林一三さんの自邸だった
  「雅俗山荘」へ…
生活の場であり芸術のための空間が
自分のおウチで実現させちゃった空間。

2階外壁の
ハーフティンバー」がカッコイイ。
外壁に骨組みが露出しているのが
「ハーフティンバー」というく工法。
もとは材木不足だったヨーロッパが源流、
北米では広い空間を作り出すものとして発展。
外観も和風でもあり、洋風でもある。 
玄関をはいると重厚な雰囲気が漂う。
瓦葺きの切妻屋根…
実は日本家屋とは違って、
半円形のスペイン瓦が組違いになってる。
外壁は「リソイド」という調合左官材料とか…
スペイン瓦の屋根に淡黄色の塗り壁、
スパニッシュ様式」の典型的な面構え。
2階吹き抜けの客室は空間で、
階段をあがると部屋を一望できた。

2階には執務室。
宝塚歌劇の創設や
演劇・映画といった事業を
数々と軌道にのせた審美眼は、
2階にギャラリーを設けるなどして、
自分が楽しむだけでなく、
愛好者にも楽しんでもらおうとした
まさにサロンであった。
茶の湯についての造詣の深さは、
実業家の趣味の領域を遥かに超え…
庭園内には三つの茶室があるのだが、
茶室「即庵」は二方向に間をめぐらし、
椅子に腰掛けて喫茶するという大胆なもの。
60年以上も前にこんな斬新な茶の世界が、
生み出された事実は彼の先見性がみてとれる。
美しく手入れされた庭木たち。
上品なものと俗っぽいものを
雅俗」と言うのだが…
パブリックとプライベートが
同居しえた空間ということなのかも。
阪急の歴史をたどる展示もあった。
元々昭和初期に
京阪間を高速で結ぶ新線として、
京阪電気鉄道が設立した
子会社「新京阪鉄道によって
開業されたものが、
今の阪急京都本線ということ。
そして高校野球の発祥の地
豊中球場」のこと。
くまなく見まわったが…
阪急ブレーブス」の
展示は見当たらなかった。
おそらくオリックス・バファローズとの、
絡みによるものなのか???
歴史の一コマから
勇者”に逢うことができなかった。

「雅俗山荘」
建築年:1937年(昭和12)
改修年:1957年(昭和32)
設計 :小林利助
構造: 鉄筋コンクリート造2階建、瓦葺
【国登録有形文化財】

「けんざい206号」掲載の
私の建築探訪〜逸翁美術館」を参考にしました。
 取材:サンケイビルテクノ大阪営業部 濱田留美子さん

2015年2月20日金曜日

「KANO」列伝④ 蘇 正生

「2番 センター 蘇正生」
(そ・しょうせい)

『KANO』のうち3人は日本人、
蘇正生ら2人は「本島人」と呼ばれ、
4人は先住民族「高砂族」だったそうです。
中京商との決勝戦に寄せた
作家 菊池寛の甲子園印象記にこうある
「日本人、本島人、
 高砂族という変わった人種が
 同じ目的のため共同し
 努力しているということが、
 何となく
 涙ぐましい感じを起こさせる」と。
写真は嘉義大学に設置された
近藤兵太郎監督と蘇正生選手の彫像。

日本敗戦後、台湾は中華民国のものとなった。
国民党軍による反対派弾圧事件で
2万ともいわれる死者が出た歴史が残る。
蘇のチームメートだった陳耕元らは
混乱をさけて田舎に帰り、
先住民のために学校を作り野球を教えた。

蘇正生さんは
甲子園第二回戦の札幌商校戦で、
最も遠い外野レフトスタンドの壁に当てる
三塁打を放ったという怪物だった。
そして近藤兵太郎監督は、
愛媛の松山商で監督をしていた人。
球は霊(たま)なり」の碑は
松山の坊っちゃんスタジアム近くに
2014年10月に設置されたのだそうです。

『KANO』メンバー中では最も長生きし、
嘉農の「語り部」でもあった。
「嘉農口述歴史」に彼の言葉が残る。

「(天下の嘉農の成功の)功労者は
近藤先生である事は言うまでもありません。
近藤先生は日本中等野球の名門校、
松山商業の優秀な選手で、
アメリカに遠征した強者で実力は抜群でした。
のち嘉義商工専修学校の会計を担当、
その傍ら嘉農の要請で
野球のコーチを兼ねていました。
然し本職が商工学校だったので、
毎日のように私達を
コーチする事は出来なかったのです。
依って嘉義農林野球部はある方面から言って
自治制、自発的精神のもとで成長してきたと
言っても良いのではないでしょうか。」  
 「戦後は故郷の
 台南県東山郷の郷公所に勤め、
 少年野球などで後進の育成にあたった。
 晩年、忘れられていた嘉義農林が再び
 注目されるようになってからは、
 最後のメンバーとして
  台湾野球界の「国宝」と呼ばれたが、
 2008年に96歳で亡くなった。」
KANOが台湾に持ち帰った
準優勝盾である朝日牌」は、
戦後行方知れずになったそうです。
1996年に日台友好の印として復刻、
当時84歳の蘇正生さんに手渡されました。

参考:日本さくら交流協会HP
「台湾・精神を伝承する陽光桜の植樹式並びに
 嘉義大学近藤兵太郎と蘇正生の銅像除幕式」