2014年11月23日日曜日

くじらショモーヤーレ

長崎ラストのブログは「くじら
お正月・結婚式といったおめでたい席で
長崎では鯨を食べる風習が今なお
引き継がれています。
年末になると...
町のあちこちで鯨が山盛りに
積まれ売られているのが長崎の年越しとか。
グラバー園の「長崎伝統芸能館」に
あった万屋町の「子鯨」
長崎くんちの「鯨の潮吹き」は
一つの町しか出さない演目なのだそうで、
なんと7年に一度しか見られません。
龍踊やコッコデショと並んで
最も人気のある出し物なのですが…
実は「大鯨」というのがいて、
そっちは長さ6メートル、
重さは2トン以上だそうです。
くじら料理」は実は長崎空港の
鮨どころ 「しょうぶ」にていただきました。
紅いも焼酎「ちょうちょうさん」とともに…
写真をふたたび…
ショウガが添えられているのが「赤身」。
まんなかの丸いのが「百ひろ」。
小腸を処理して茹でたもの。
赤身の刺身肉と魚の中間のような味わい。
しょうが醤油で食べたら「うまかね~」。

赤いのは「鯨ベーコン」、
そしてお皿の右に盛りつけてあるのが、
鯨のタン「さえずり」。
トロッと解け出す風味とシコシコ感、
ちょっとグロいけど
旨い〜〜〜〜なり(・ω <)。
セットには一杯付いてたけどお代わりを。 
麦焼酎「壱岐」も
旨い〜〜〜〜なり(・ω <)。
 ちなみに ショモーヤーレとは、
「所望(する。もう一度)やれ」の意。
カステラも絵にはないけど...
旨い〜〜〜〜なり(・ω <)でしたよ。
長崎(・ω・)v
モッテコーイ、モッテコイ」なり。

祈りのナガサキ

8月6日のヒロシマを見たことがある。
ナガサキに落とされたのは
1945年8月9日。
広島に続いての2発目の原爆は
北九州・小倉に落とされる
予定だったと伝わる。
小倉上空の雲が濃く、
第二目標のナガサキとなった。
長崎には三菱造船所と
兵器工場があったから…
原子爆弾落下中心地碑

投下目標は、
市内中心部の出島の近く中央橋あたりの
予定だったとの記録もあるが、
実際は4Km北にずれて…
日本のキリスト教の歴史上、
最も重要な建築物と知られていた
浦上の聖堂のほぼ真上で爆発
平和祈念像

爆心地近くに残るの
被曝遺構ではあるが
移設されてこの地にある。
平和公園に鎮座するのは、
あくまで戦後に建てられたモノ
北村西望の「平和祈念像」。

平和公園の丘には被曝当時は、
長崎刑務所浦上刑務支所」があった。
受刑者や未決囚、
看守とその家族134人全員死亡。
なかには中国、朝鮮人も含まれていた。
こちらも跡が残るのみである。

ヒロシマでもそうだが、
平和公園となり毎年執り行われる
平和記念式典の会場となる。
爆心地附近は整備されているのだが、
ナガサキにはシンボルが失われている

被爆50周年記念事業碑」彫刻家 富永直樹

ヒロシマから3日後に行われる
ナガサキはヒロシマと雰囲気が少し異なる。
怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ」とも。

Aコール」彫刻家 ボリス・ゴンドフ

祈念像をはじめとして実に記念碑というか、
祈念碑が多く立ち並んでいたナガサキ。
「キリスト教という信仰の町だから...
でも宗旨をこえて
いろんな主張が許容されるってことか。」
と呟きながら多くの碑文や像の前に立ったのだが、
どこか何か違う雰囲気を感じていた。

ヒロシマの水辺に刻まれていた
メインモニュメントのコトバは
「安らかに眠って下さい 過ちは 
    繰返しませぬから」

ナガサキはーある日のある少女の手記から
「・・・・・・・・・・
のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
      一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」

被爆者であり、キリスト教徒である
長崎大学医学部の永井隆教授が書いた
長崎の鐘 (アルバ文庫)』という著作が
大ヒットしたのらしい。
1952年に日本が独立した後の出版、
映画化されたことで藤山一郎の歌も大ヒット、
ナガサキは日本の誰もが知るようになった。

原爆の悲惨さを描いた作品は最初、
アメリカ側はその出版を許さなかった。
だが永井博士がキリスト教者として、
被曝を神の摂理として肯定的に捉え、
平和を祈りながら死んだことを知ると...
軟化したという。
折鶴の塔」(右)

ナガサキの原爆遺構として、
キリスト教会の廃墟が永遠に残るなんてこと。
アメリカとしては「バツの悪いモノ」、
はじめは市議会も市長も、
浦上の廃墟を「被曝の歴史」
としたかったようだ...
PEOPLE AT PEACE


浦上天主堂の廃墟を保存する」という決定、
覆すための動きがいろいろあったそうである。
高瀬毅さんの
ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」
には、いろいろと書かれていました。

ながさき洋館めぐり 浦上天主堂

もとの天主堂は東洋一のレンガ造りの
ロマネスク様式大聖堂
正面双塔にフランス製の
備えられていました。
再建は1959年(昭和34)の
鉄筋コンクリート造りで、
1980年(昭和55年)にあは
外壁が煉瓦タイルとなって今に至ります。
ところで…
長崎ではあの教科書で目にした踏絵制度は、
すでに安政3年(1856)に廃止されていたのですが、
寺請制度というのが続いていたそです。
浦上地区の信徒たちは、
表向きは馬込郷にある聖徳寺の檀家のままで、
キリシタンであっても、
仏式の葬儀を営むべしということだったそうです。

1867年(慶応3)春頃から亡くなった
潜伏キリシタンを檀那寺の聖徳寺の許可なく
自葬する親族が増加したのが
浦上四番崩れ」のきっかけとなります。
崩れ」とは、キリシタンが大量検挙され、
潜伏機関が崩れることをいいます。
神道を国教とする新政府により1870年までに、
約3,400人の浦上キリシタンが
西日本に分散され流罪となったそうです。

その後1873年(明治6)のキリシタン禁制の
高札撤去にともなう太政官令によって
釈放はされるのですが、
帰郷しても家も財産もないために
厳しい生活を強いられたのだそうです。
正面には「十字架のキリスト」。
破壊された像は信徒会館あったそうですが、
見れてないなぁ〜〜(TдT)

正面左手は「使徒聖ヨハネ像
原爆で鼻が欠けたものの
破壊されず残ったもの。
右手は「悲しみの聖母マリア像
原爆で指が欠けたが、
こちらも破壊されず残ったそうです。
内部見学もできました(・ω・)v
内部写真は絵ハガキより…
実はこの祭壇を手がけたのは、
浦上天主堂の信者さんで
キリスト教葬儀社を営む
栄光式典社の西村勇夫さんという方。
原爆投下当日も浦上天主堂に祈りに行き、
帰宅直後に被爆されたのだが、
奇跡的に一命を取り留められたそうです。
一級技能士の資格を取って独立され、
木工所を経営してカトリックの祭壇を
作る仕事をされてきたそうです。
被爆マリア像
木製の祭壇が聖堂に取付けられ、
イタリアから送られた無原罪の聖母の像。
西村さんもこの修復に携われたそうです。
マドリッドのプラド美術館にある
ムリーリョの「無原罪のお宿り」という
絵画がモデルに制作されたと伝わる
とても美しい像であったそうです。
在りし日の旧祭壇にの写真に
その姿が残されています。

長崎さるくにあった、
西村さんのコトバにて
括りたいと思います。

「浦上天主堂の祭壇もローマ法王が
長崎を訪問された時の祈祷台も、
私が作らせていただいたんですよ。
そして、そうこうしているうちに
周囲から頼まれて、
他には類を見ない
カトリック式の祭壇を考案し、
葬儀社を手がけるようになりました。」

「私がこうして仕事を
させていただいているのは、
原爆に遭っても
生き延びてきた者の宿命、
神さまの思し召しだと思い、
心から感謝しています。
今は、人生よくここまで生きてきたな
というのが実感です。」 

ナガサキ被曝の浦上天主堂を訪ねて

ヒロシマは何度も訪れていたが、
ナガサキの爆心地へは初めて…
駆け足だったので原爆資料館見学の
時間は取れなかったのだが、
ナガサキの被曝の象徴
浦上天主堂」を訪ねた。
「被爆後の浦上天主堂」小川虎彦氏撮影
東洋一の壮大さを誇る「浦上天主堂」。
1945年(昭和20)8月9日 午前11時2分
まわりの壁をわずかに残すだけで、
まさにガレキとなった信仰の地。
この側壁は聖堂の南側の一部、
1958年(昭和33年)に新天主堂建設のため
爆心地にほど近い場所に移築されたもの。

爆心地から北東へ約500mの
小高い丘にあった浦上天主堂は、
1895年(明治28)から建築に着手し、
信徒たちの献金と労働奉仕により、
1914年(大正3年)に
献堂式が挙げられたとのこと。
壁上の石像はザベリオと使徒だそうです。
アカンサスの彫刻は
当時の荘厳さを伝えています。
江戸時代キリスト教弾圧の象徴的存在だった
庄屋屋敷の跡地に建てられたのですが、
原爆によってふたたび厳しい経験を
強いられる地になってしまったのです。
浦上地区のカトリック信徒約12,000人は、
ほぼ瞬間的に命を落としました。
爆死したとされる信徒の命は約8,500人
こちらは正面部の遺構。
現浦上天主堂の正面に置かれているもの。
手前から聖セシリア像イエスの聖心像
その奥の像は頭部の破壊でわかっていません。
浦上天主堂を背にする像にも
お顔がありませんでした。
どれも熱線で黒く焦げていて、
瞬間的な猛烈な爆風で
鼻、指、頭部などが失われていました。
まさに「破滅の時」が
止まっているかのようでした。
こちらは1945年11月23日に行われた
「合同慰霊祭」、
生き残りの信徒約600名が参列し、
浦川和三郎司教司式の死者のミサ。
天主堂は倒壊したので、
ミサにも行けないと思っていたところ、
9月になったある日、
聖フランシスコ病院の焼跡でミサがあると…
南側の半地下室に仮聖堂を移し、
日曜日のミサが
行われるようになったそうである。