2015年7月3日金曜日

みむろどうのあじさい


三室戸寺の紫陽花
まさに満開でした!!


50種・1万株…ピークは過ぎているとか、
でも十分に楽しめました(・ω・)v

杉木立の間のムラサキは、
源氏物語絵巻ゆかりの宇治らしい。

日本は総じて酸性土が多く、
温暖で多湿性気候にピッタリというわけ。
アジサイは日本原産なのですが、
なぜか一時期1,000年ほど、
興味を示してもらえなかった存在なのです。
開花してからも花の色が変わっていく、
ってことが「移り気」とか「不道徳」??
アジサイの名は、「藍色が集まった」を意の
集真藍(あずさい)から転じたとの説が、
中国大陸では別種なのですが、
近代以降では「紫陽花」と綴られます。
平安時代に編纂の日本最古の辞典
倭名類聚抄』には、
和名「アズサイ(安豆佐為)」として登場。

朝日新聞の2009年の投票では、
日本一のアジサイの名所の全国第3位
ちなみに・・・
1位は箱根登山鉄道(神奈川県)、
2位 明月寺(神奈川県)です。
4位 矢田寺(奈良県)、
5位 六甲山・摩耶山一帯(兵庫県)
なんだそうですよ。

最近では
ハートマークあじさい」なんてのが、
ちと評判になっているらしいですよ。
見つけられなかったというか、
わかんなかったけども。
あじさいのピークは
終わりつつありますが・・・
本堂前のハスがそろそろ見頃。
少し早起きして、
開ききる前に訪れたいものです。
三重塔近くにはモミジ葉もありますから・・・
紅葉のシーズンもよいようです。

「山吹や宇治の焙炉の匂ふとき」
(やまぶきや うじのほいろの におうとき)

芭蕉の句碑・・・
宇治は山吹の名所である上、
茶の産地でもあります。
茶の焙煎のさかりになると、
きっと茶の匂いが立ち込めるのでしょう。
山吹には匂いがないのだそうです。

三室戸寺の勝ち牛!!


三室戸寺
と対峙するのは勝運の牛
この牛にはこんな逸話があります。

昔、この宇治の里に富右衛門という
お百姓の夫婦が住んでいました。
彼らはやっとのことで手に入れた
子牛が弱々しいので、
毎月の三室戸寺の観音詣
連れていっては、
境内の草を食べさせていました。

すると…
牛は何か粘液のついた丸いものを
吐き出しました夫婦はそれを洗い清め、
牛玉として大切にしていたそうです。
玉を吐いたあと
牛はどんどん元気になり
大きく育っていきました。

牛のことが評判になると
欲深の権兵衛がぜひ自分の牛と
闘わせたいといってきました。
夫婦はとんでもないと断りましたが…
三晩つづけて
富右衛門の夢に牛があらわれて
闘わせたてくださいというのです。

富右衛門は決心し
闘牛に挑んだそうです。
見事勝利し賞金を手にいれて
それを元手に牛の仲買として
里一番の大金持ちになったとか・
その後彼は仏門に入ったそうですが、
京の仏師に牛の木像を作らせて、
その後三室戸寺に納めたと。
その木像はこの「宝勝牛」の胎内に…
勝運あらたかなのは、
横綱 若乃花
平成10年春場所での優勝。
場所前に絵馬を奉納して
見事優勝だったとか。
手の平はほぼ同じ…
でも指短っ。゚(゚´Д`゚)゚。

2015年7月1日水曜日

うじ三室戸寺をたずねて

梅雨の晴れ間の有効利用!!
アジサイ満開の
三室戸寺に行ってきました。
6月中は
ライトアップもされていたとのこと、
ほぼ満開を過ぎた紫陽花。
青空よりもやはり雨露があったほうが、
似合っているように思いました。
三室堂【みむろどう】とあり、
かつてこう呼ばれていたことを
伝えています。
宝亀年間(770~780)
光仁天皇の勅願によって行表が開山、
はじめは御室戸寺と称したそうです。
のちに、
花山・三条・白河三帝の
離宮となったことで、
三室戸寺」と名を改められたとのこと。 
5千坪の大庭園に咲きほこる1万株。

石段をあがるとヘビにトグロを巻かれた
髭面の方が鎮座されています。
狛蛇…頭は老翁で体は蛇、
台座はってこと。

実は宇賀神さんでして、
日本神話に登場する
宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来します。
財運・良運あらたかとか(・ω・)v
本堂は江戸時代の重層入母屋造り
文化二年の建立と伝わります…
正面唐破風の向拝。
見上げるとみごとな彫刻!!
龍の蟇股彫刻も素晴らしいのですが…
この「手挟み(たばさみ)」という部分は、
鎌倉時代ころから設えられたようですが、
桃山時代・江戸時代になると透かし彫や
籠彫を施したものが現れてきて、
図様も多様化してきたそうです。
まさに円熟期の時代の彫り物です。
近年境内にはいろんな石像が乱立??
したようで・・・
こちらはウサギさん。
宇治は古来には菟道(うじ)
称されていたこともあったそうです。
いまは「とどう」の読みで
地名として残っています。

仁徳天皇の弟にあたる
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
宇治に来た際、
兎が道案内したという
伝承が残っています。
狛兎は球を抱いていてが、
その球の中には卵型の石が…
球のなかで見事立てられれば
願いが叶うということで挑戦!!??
虎次郎は即立ち(TдT)でしたよ…

2015年6月21日日曜日

堺の街並みを往く〜白夜のウサギたち

宿院頓宮であったウサギの集会???
実は1963年(昭和38)に獣医でもあり、
動物彫刻家の
岩田千虎(かずとら)さん指導で、
作られたアートなんだそうです。

で・・・なぜ兎なの??
住吉大社の鎮座は
卯年卯月卯日とされていて、
毎年5月最初の卯の日に
卯の葉神事」なるものが
大社にて営まれており、
由縁があるそうです。

宿院といえば、虎次郎の大好物
うどんすき 美々卯さんの発祥の地。
この「白夜の兎」群像は、
美々卯さんの寄贈だとも言われています。
宿院頓宮の境内には「兜神社」の旧跡碑。
神功皇后が三韓討伐から凱旋したおりに、
ここに兜を埋めた故事に因むお社です。
神功皇后と云えばウサギさんでして、
手水舎にも兎がいたのですが、
カメラに残っていませんでした。

狛犬たちの表情に
かまけていたからですかね(TдT)

堺の街並みを往く〜住吉・大鳥の御旅所・宿院頓宮


利晶の杜にほど近く、
フェニックス通りの分離帯には
住吉 大鳥 両大社頓宮」の石碑。
住吉大社の住吉大神さまと神功皇后、
そして大鳥大社の摂社として、
大鳥井瀬神社が鎮座されておられます。

現在は境内はかなり狭いのですが、
古くは東西1町半、南北1町の地で、
四方に溝をめぐらし住吉大社の御旅所。

宿院は“宿居”とも書くそうで、
「神の假にましますゆえなり」とか。
東西南北の通路には11もの口
住吉の「吉」の字
ちなんだものだと伝わっています。

荒和大祓神事が営まれる境内西側に、
飯匙堀」もしくは「飯匙池」、
いひがひ」と読みますが、
元々は池の形が飯匙(しゃもじ)のよう、
ですから絵馬はシャモジ形なのです。

住吉の神輿は6月30日に
この飯匙の池にお渡りをなされ、
9月30日には玉出島に移ることが
恒例となっているのですが、
これがいわゆる「陰陽の御祓(おおはらえ)
をあらわしていると言われています。

彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が、
塩津翁(しおつのおきな)
助けを借り竜宮に行き、
豊玉姫と契りを交わし、
(むこ)の引き出物として
干珠・満珠をもらった神話。

竜宮から帰って来て、
干珠は宿院の地に埋められたとか。
そして満珠は、
住吉境内社 大海神社に埋めたことにより、
九月の晦日に満珠を鎮魂され、
六月晦日に宿院にお越しになるのは、
干珠を鎮魂なさるためなのです。
竜宮伝説が交わる場所が
ここにありました。

2015年6月20日土曜日

堺の街並みを往く〜利休と晶子との差170センチ?

3月20日オープンの
さかい利晶の杜”にも、
寄ってきましたよ!!

建物の裏手にある
千利休屋敷跡」から見ると、
本当にリッパと言うしかありません。
有料ゾーンの
千利休茶の湯館与謝野晶子記念館
そしてオープンエリアの
観光案内展示室で構成されています。
梅の花 さんや
ドライブスルー・スタバがあって、
道の駅みたいな感じなのかなぁ〜
なんて思えました。

屋敷跡に残る「椿の井戸」は、
椿の炭を底に沈められたことに因むもの。
井戸屋形は利休ゆかりの
大徳寺山門の古部材より建てられたもの。


そして…
与謝野晶子の生家もほど近くに。
菓子商 駿河屋の三女として、

甲斐町に生まれてから、
鉄幹さんに出会って
家を出るまで堺で過ごしました。

“利晶の杜”の与謝野晶子記念館に
原寸大復元された駿河屋の店先。

1901年(明治34)出版の「みだれ髪」は、
鉄幹さんへのあふれる愛と
青春のみずみずしさが今でも新鮮。

こちらは“利晶の杜”にあった文学碑。
1933年(昭和8年)に与謝野夫妻が
互いの文学的資質を誉め讃えたものです。
二人の仲睦まじく、
尊敬し合っていた姿が偲ばれます。
「海こひし 潮の遠鳴りかぞへつつ
 少女となりし父母の家」の歌碑。

実は晶子が通った堺女学校への道は、
現在の地表から30cm下の道
徳川家康が京で信長と会見した後、
本能寺の変を聞きいわゆる伊賀越にて、
大急ぎで三河に逃れたときは地下2m

ザビエル公園にある
「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅(ほうたく)」の碑

それより遡って、
サンフランシスコ・ザビエル
キリスト教の布教のため、
堺の地を踏んだときは地下2m20cm
さらに一休さんが街を闊歩したころの地表は、
地下3mのところに位置するのだそうです。
なぜそんなことが分かるかといえば、
大坂夏の陣では焼き討ちに遭い、
自治都市堺が灰燼化したときの層。
キリスト教宣教師も記録をとどめる
天正の大火」の跡。
利休はこの下の地層に生きた。
第二次世界大戦末期の大空襲
焼け野原になったときの焦土層の下、
晶子さんと鉄幹さんが歩いていたとこ。

このブログは
ツール・ド・堺「堺意外史」Vol.24
晶子は30cm、家康は2m、
  一休は3m現地表下を歩いていた
を参考にしました。