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村野藤吾のファサード⑪ 尼崎市庁舎(尼崎市)

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村野藤吾のファサードを辿る。 尼崎市庁舎を訪ねて JR立花駅 から、 歩くこと10分あまり… ここが市の中心という立地ではない、 もとは 旧尼崎城内 にあったものが、 1962(昭和37)年に移ってきた。 発足当時の尼崎市の中心部は、 阪神尼崎駅の南側あたり。 ただ合併を皮切りに、 市域は阪急沿線の武庫之荘や 園田方面へと一気に拡大した。 中心地というよりも 「へそ」 を 立花に移した という感じで、 手狭になったための新庁舎を、 というのがこの場所だった。 「合併したばかりの立花に  役所を取られたと感じた」 というのは、 旧庁舎周辺住民の正直な 気持ちだったに違いない。 川野弘さんの 『市庁舎の新築』 ※2 によると… (1)人口の重心に近いこと (2)都心に近いこと (3)交通の便のよい場所であること (4)地盤が良好であること (5)煤塵の降らない場所であること この5つの基本的な方針だったとか。 村野藤吾の設計だという話に移す。 通常の建物では柱と柱の間に 窓があるものだが、 ここでは柱と窓が重なっている。 低層棟を囲んで置かれた池は、 かつの市庁舎のあった尼崎城の堀、 敷地が元々ため池だったことを 連想させるものなのだそうです。 [透視図  京都工芸繊維大学美術工芸史料館蔵 ※3 ] この地がもともと池だったことを 配慮してなのだろう、 池に浮いた様になっていて、 「リオデジャネイロから   引っ越したブラジリア のようだ」 という人もいる。 ただこの水は少し厄介だそうだ。 澱んだ水だから夏には蚊の発生も、 悩ますのだろう… 水面に浮いたようでもあり、 橋掛りがあって、 和風のテイストも感じさせる。 地下フロアへ… 地下は漏水で黒カビが発生したり、 なんとなく湿っぽい感じがした。 [建築工事中の空中写真 ※3] 低層棟の中央には吹抜けのある かつての「市民ホール」と 名付けられたスペース。 巨大な居室のような空間と評される。 [市長室机 ※3] 村野は建築と合わせて 家具デザインも手がけていて、 ここも例外ではなかったようで…

村野藤吾のファサード⑩ 浪花組本社ビル

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凹凸が繰り返された 外観は集合住宅?、 夜になると当ビルだけ明りがなく、 ミナミの繁華街のど真ん中に立つ、 「 浪花組本社ビル 」。 その異様ともいえる姿から、 ホステスさん達に「 幽霊ビル 」と 呼ばれていたそうです。 全貌は イケフェスサイト より… “ 異形のファサード ”は 何を示すのか… 「これははたして本当に  “老大家”の デザインであろうか、  と思わず訝ってしまうような  外観をみせるような作品」 とは、 2000年に出された 『 外の装い―素材とファサード    (村野藤吾のデザイン・エッセンス) 』   にあるコトバ。 2階から4階には「 霰亀甲文 」、 「 段亀甲文 」をベースに 「 変り蜀江文 」を加味してできた 三角形、四角形、五角形、 菱形、六角形などなど。 道路沿いの洒落た鉄製デザイン。 そのなかに 「 好きやねん大阪 」の碑石。 “異形のファサード”を 西島業士 さんは、 こう解説していました 「それは俗悪な建築が街区を  席捲していく都市の現状、  その抗い難い変貌に対する  村野の危惧があり、  建築家としての責任・矜持から  その思いを形体にアピールする  デザインとすることであったと。」 ※ “魔神”のようで“ 毘沙門天 ”の イメージを重ねたともの“寓意”も。 左官業を本業 とした 浪花組 さん、 オフィスビルらしかなぬのが、 「時」を語る形になったのだと、 そんな風に感じさせます。 「浪花組ビルディング」 (住実ビル)→浪花組本社ビル 竣工年:1964(昭和39)年 設計 :村野藤吾 構造 :鉄筋コンクリート造・一部鉄骨造 このブログは先の文献などを参考にしました。 ※『 村野藤吾のファサードデザイン:    図面資料に見るその世界 』2013年  「「時」を語るー“寓意”としての建築」西島業士 ※ 産経WEST【都市を生きる建築(20)】 「繁華街を圧倒する凹凸外観」  

大阪の近代化遺産をあるく〜住友玉突場

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大阪の島之内に残る、 住友家の ビリヤード場 。 数ある 住友家本邸のうち、 第二次大戦の戦災で失われるまで 迎賓館として使われたこの地は、 「 鰻谷本邸 」と言われたそうです。 邸宅は残っていませんが、 その東側の一角に残るビリヤード場。 日本で初めてのビリヤード場なのです。 ギリシャ風の三角ペディメント、 その上は 鬼瓦の切妻屋根 なのです。 木枠の洋風上げ下げ窓 通り側の面に丸窓を配された 明治初期の 擬洋風 の土蔵造り。 洋風と和風とが混在しています。 1892(明治25)年以前の建築だとか。 もとは、日本最大の銅精錬所である 「 住友長堀銅吹所 」があったところで、 1876(明治9)年に銅吹所が廃止され、 その跡地が住友家の邸宅になりました。 大坂屋や平野屋など有力な業者を 秀でていたのが 「泉屋」 。 泉屋を営む住友家は愛媛県にある 別子銅山 から産出の銅の精錬で 巨万の富を築きました、 のちの 住友財閥 の基盤は ここから始まったのです。 近くの三井住友銀行のビルには、 銅吹所の錦絵の パネル展示が ありました。