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8月, 2011の投稿を表示しています

TARO100「生命の樹」

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あの岡本太郎記念館で 展示されていた 「生命の樹の模型」 。 記念館での展覧会には間に合わなくて あきらめていたのだが、 EXPOパビリオンで逢うことができた。 フィギュアのパイオニアの 海洋堂さん が手掛けただけあって その作りこみはサスガっす。 1/20スケールの模型でも 雰囲気が伝わってくる。 「原生類時代」 海ユリ、ポリフ、太陽虫、 クラゲなんかの原生動物たち 「三葉虫・魚類時代」〜「両生類時代」 そして 「プロントザウルス」 が続く・・・ 万博閉幕後に撤去が進んでしまったので、 太陽の塔内に当時の姿を 見ることはできないのが残念ではある。 当時のパネル写真・・・・ 「太陽の空間」とともに、 うねりをあげてのび上がる一本の樹。 大屋根をブチ抜いた《 太陽の塔 》のその胎内には、 根源から立ちのぼり未来へと向かう生命の 内なるエネルギーが秘められていたのだという。 当時のモニュメントも顔を寄せていたが、 間近に見ると どうもマンガチックに映る。 「絵本をみるような、  大人にも子供にも楽しいユーモラスなものを」   との構想を掲げ、 「ことさら学問的である必要 はないが、  そこに自然科学的な裏付けがあって、  教育的な要素が遊びの表現と  ハーモナイズされているように」 そして 「全体として人間を感じさせたい、  そして生きていくための何かを感じさせたい」 そんな太郎さんの思いがイマに伝わる。

TARO100「地底の太陽」

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太陽の塔の「地底の太陽」 の復活で、 急にブログのアクセスが増えていたこの頃。 アタマの「黄金の顔」、胴体の「太陽の顔」、 背中の「黒い太陽」にもう一つ 太陽の塔の四つ目の顔に会いに行って来た。    当時の「地底の太陽」のパネル写真 普段は自由に出入りできる ホワイエ の 部分にパテーションを切られていて、 暗幕で覆って雰囲気を出していた。 右奥にみえる暗幕の中で展示されていた。 「EXPO'70パビリオン」 にある模型にも、 「 地底の太陽」が作りこまれていたり、 大きな土偶が陣取るコーナーもあるのは、 2010年3月のオープンまでに なんとか展示しようと考えていた代物。 万博終了後は兵庫県に 寄贈された記録があるものの、 相手方の兵庫県教委社会教育課には 受け入れ記録が残っていないという。 実のところ当時は地下展示室の 装飾の一つだと思われていて、 岡本太郎の芸術作品とは みなされていなかったらしいというから、 なんか大きな金色のオブジェらしきもの、 程度にしか思われてなかったのかも知れない。 「NEWSゆう+」 というニュース番組でも 都市伝説と化せられていて 、 具体的な情報は得られなかったし・・・ 「作品を知ってもらい、    所在の情報につながれば」 との願いを込めての企画なんだそうだ。 顔の直径は 3メートルで、 左右に「コロナ」が伸びているのは、 いかにも太郎さんらしいなぁ〜と。 原寸大のレプリカでの復活であるが、 雰囲気は十分が伝わってくる。 展示スペースの復元には当時の写真なども 参考にしたようで、天井には太郎が集めた 祈りのメンツたちは 実に圧巻だった。 世界中から集められた祈りの造形は、 「国立民族学博物館」 に今に伝わっている。 こちらは当時一緒に展示された 「 クアトリケの神像」 か? 虎次郎は万博当時は 3歳だから、 印象にはないはずなのだが・・・ なんか夢に出てきた気がする?? 会場には 「岡本太郎のアトリエ」 も 再現されていて太郎さんも出張。 1970年代に描かれた   《悲しい動物》 と 《幼神》 。 そう 《生命の樹》 のレプリカと対面!! 《生命の樹》は改めてブログります。 そうそう・・・ あの 「 アートピースコレクション 」 の     ガチャポンもありましたよ。 まさか大阪で出来るとは思わんかったから、 も

帝都食べ観て「三井本館」

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三菱の岩崎邸 を観たので    それなら 「三井」 も!! 関東大震災の復興のシンボルでもあった 「三井本館」 も観てきた・・・・ 「関東 大震災の2倍の地震が来ても  壊れないものをつくるべし」 との 社長の命によって作られただけあって、 まさに重厚な面構えをみせていました。 華やかさを 過度に 強調していない まさに「抑制された美」ともいわれる。 コリント式のオーダー列柱 、 そしてアカンサスの装飾が王道を示しています。 外壁上部には レリーフが飾られています。 これは当時の三井グループが 取り扱う商品を意味しているそうです。 「紡車、繭、桑」 は 絹 「はかり、鍵」 は    為替と財宝の保管 こちらは 「翼車と飛行機」  航空、陸運のことだ。 これは 「蜂の巣」 で  勤勉を表すという。 全部で12あるのですが、 1つの側面に4つずつで計3面。 残りの1面は今は 三井が買収し、 三井タワー になっています。 その側面には 高さ24.5メートルのガラスアート 「ヒストリカルウォール」 が   設置されていていました。 当時は別の商店が建っていて、 日本の成長を支えたあの三井でさえも 土地買収ができなかったのだそうです。

帝都食べ観て「日本橋」

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こないだの帝都東京めぐり・・・ パフェは食べなかったけど、 千疋屋総本店 にも寄った。 江戸の天保5年(1834年)に 今の日本橋 人形町3丁目に 「水菓子安うり処」 を掲げたのが始まり。    今は安売はみかけない・・・・ パフェが混み合ってたこともあって、 スペシャルマンゴーカレーライス を食べた。 いや〜〜美味でございました!! ミニデザート で 千疋屋をプチ体験 ・・・ 日本橋といえば日本の道路の原点で、 「日本国道路元標」 ってのがある。 ホンモノは道路の中央分離帯にはめ込まれていて、 道端にレプリカが置かれておった。 江戸時代の五街道の起点からなお続く、 日本の道のスタート地点だ。  安藤広重の東海道五十三次「日本橋」 橋詰の四本の親柱にはは立派な 獅子 、 獅子が片足で押さえつけているのは 東京都の紋章 なんだそうだ。 そして中央の柱には 「麒麟」 、 「獅子」は守護、 「麒麟」は繁栄を表している。 現在の日本橋が架けられたのは 明治44年 で、 数えて今年が100年目にあたるという。 高圧洗浄機の世界トップメーカーの日本法人 ケルヒャー ジャパン さんの手によって、 キレイにしてもらったのだという。 三井記念美術館 でやってた特別展 日本美術にみる「橋」ものがたり  −天橋立から日本橋まで−    ものぞいてきた・・・

はじめての「初辰まいり」

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毎日乗ってる 阪堺電車の電停に 月末になると貼られる 「初辰まいり」 のポスター みのりある三社参り って? ちょっと早めの夏休みで ぶらりと体験してきました。 住吉大社の境内を入ると。。。 年季の入った石灯籠が  あちこちに立っています。 「魚問屋 魚仲買」とか 「干鰯仲間」とか・・・ それぞれの商いのグループで 住吉講 を組んで奉納したもので、 信仰の表れとともに広告の役割も 兼ねていたものなのだそうです。 まずは 手水舎 で口と手を清める。 兎は住吉大社のお使いなんだそうで、 住吉大社御鎮座の 神功皇后 がお祭りされた日が   「卯の日」 であったことに ちなんでいるといいます。 そして住吉大社といえば 太鼓橋 。 正式には 反橋 (そりはし) といい、 秀吉の側室の 淀殿が奉納 したもので、 石造りの部分は当時のままを伝えています。 今では誰でも渡れる反橋ですが、 明治時代までは神様に限られていたようです。 真ん中は今でも神様が通る場所、 ということで避けて通って渡りました。 渡るだけでお祓いを 受けたことになると言われます。 住吉大社の四本宮の入口である      角鳥居 をくぐる。 脚が四角柱の鳥居には伊万里焼の扁額。 神功皇后が、新羅出兵の際に力をいただいた 住吉大神のお告げで、 西暦211年の卯の年卯の月卯の日に 大神を祀る場所をこの地に定めたことが 起源だといわれていて、 今年が 鎮座1800年 にあたるそうです。 奥から、第一、二、三と並んでいて、 第三本宮の南側に第四本宮があり、 みな海に向かって西に向っていて、 遣隋使、遣唐使を見送った 海の神様であること を今に伝えています。 右手の第四本宮には 神功皇后が祀られているので、 屋根にある交差している木(= 千木 )、 女性神ですので水平に 削がれています。 本宮の北側を奥に進むと、 左手に「 御文庫 (おぶんこ) 」が建つ。 大阪最古の図書館で 出版元が共同で 享保年間 (1716~1736) に 建てたもの。 一番刷りの原本が納められているそうです。 こちらは 神宮遥拝所 で、 小さな鳥居の下に 神明穴があって、 東にある 伊勢神宮を遥拝するところです。 そしていよいよ 「初辰まいり」 へ  物事の元を司る種貸社で「稲種」を  戴き願いをこめます。  次に物事の発達を司る楠珺社に詣で