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2月, 2022の投稿を表示しています

京の冬の旅2022 御室仁和寺 白書院へ

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御室 仁和寺 へ… そもそも" 御室 "という言葉、 第一世 宇多法皇の僧坊 のことを指し、 もともとは "室"だけで僧坊の意味 、 法皇のための住まいのため、 御をつけて"御室"と呼んだ のです。 " 京の冬の旅2022 "の特別公開は、 建物内からの観賞式であったのを、 庭園に下りての"特別回遊ルート" 。 ちなみに 本坊表門 は 薬医門 の形式で、 1887年に起きた旧禁禁裏火災、 その難を逃れた 桃山期の遺構 の一つ。 皇族門から南庭へ… " 皇族門 "は 四脚平唐門 、 1914年に建てられたもので、 登録有形文化財です。 桟唐戸の上には 透彫欄間 … 南庭から1914年建築の " 勅使門 "も間近に… 御殿の外からの 勅使門 … こちらも登録有形文化財で、 本願寺唐門を模した形式 を持ちます。 寄棟造に切妻造をのせた入母屋造、 この組み合わせの" 入母屋造" が、 日本では最も格式が高いとか… 壁面や 桟唐戸 (さんからど)には、 鳳凰や花菱、唐草 の図案化の透彫りm その流麗さは圧巻でした。 元の勅使門は1887年に焼失、 再建の設計を手掛けたのは、 京都府技師であった 亀岡末吉 さん。 東京美術学校の絵画科を卒業、 内務省や宮城県技師を経て、 1907年に京都府技師の職に… 平等院鳳凰堂、東福寺方丈、 東本願寺の門 なども再建。 実は仁和寺の宸殿、霊明殿は、 彼の設計で" 亀岡式 "と呼ばれます。 大玄関よりあらためて" 御殿 "へ… 明治以降の仁和寺について、 少し触れておきます。 1867年(慶応3)12月のこと、 純仁法親王 が還俗され、 仁和寺宮嘉彰(あきひと)親王と 称されることになりました 《純仁法親王像》仁和寺 第31世にして院家の皆明寺から 初めて仁和寺住職が選出されます。 1871年には 門跡、院家の呼称も廃止… 仏教界への再編の波は、 仁和寺にも及んだそうです。 落ち着きがみえたのは、 戦後の1946年のことで、 真言宗御室派の総本山 に。 "白書院" 1890年の木造平屋建、瓦葺、 表と裏に三室ずつ配る 六室構成

京の冬の旅2022 醍醐帝勅願 水火天満宮

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" 水火の争い "というのは、 水と火のように正反対… 西瓜は土で、南瓜は手で作れ とも。 " たとえ火の中水の中 "は両刀使い… 水難火除けのご利益 の天満宮は、 醍醐天皇 の勅願によって 尊意僧正 によって建立されたのは、 923年(延長元)のことでした。 堀川通も昔はここまで… ここより北は 鞍馬街道 でした。 『都名所図会』 堀川通をはさみ" 興正寺 "… 絵馬にある菅公の頭を撫でるのは、 宇多帝か醍醐帝のどちらなのか … 醍醐天皇を"東宮" いわゆる後継に決めたとき、 相談したのは 道真ただ一人 だったと。 それほど信頼されていたようで、 「道真公は、朕の忠臣ではなく、  新帝の功臣と言うべきだ」 とまで宇多天皇の記録に残ります。 いまの境内は公園の一角で、 手狭ですが 神石があちこちに … 大宰府で菅公が亡くなられたあと、 都では天変・雷火の災いが重なり、 怨霊の祟りと不安が高まりました。 延暦寺の法性坊 尊意僧正 、 勅命で宮中向かう途中、 鴨川が突如増水し町へと… 尊意は騒がずに数珠をひともみ、 神剣を天にかざすと、 水位が下り水面が真っ二つ… 水流の間に現れたのが" 登天石 "。 菅公の神霊が現れ昇天し雲中へ… こちらは" 出世石 "大願成就、 世に出る神石とか… 「眼疾を煩う人、  この清水の奇篤によって  平癒した人多くあり」 と伝わる 都名水のの一つ" 金龍水 "。 渇れることなく濁ることなく … " 玉子神石 "道真の御愛石… 子宝、安産にご利益ありとか。 道真は三男ですが兄たちは夭逝、 父 是善が 豊受大神宮 に祈願… その時の宮司が 渡会春彦 。 渡会春彦は都に上り道真に仕え、 大宰府で看取ったのも度会春彦。 若い頃から白髪だったため、 "白太夫"の名があります。 玉と龍にまつわる社… " 秋葉社 ” 火之迦具土大神 。 言わずとしれた 火の神様 です。 日本最古の天満宮と各地にあり、 京都府園部町の" 生身天満宮 "も そのひとつなのですが… 境内社の秋葉愛宕神社は、 全国の 秋葉神社の総本宮 。 かつては生身天満宮の宮寺で、

京の冬の旅2022 藤堂高虎と古田織部の"破れ袋"

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「身の上を 思へば悔し 罪とがの  一つ二つに あらぬ愚かさ」 藤堂高虎 の詠んだ短歌です。 率直な思いが滲み出ています… 立身出世のためとは言え、 乱世を生き抜き罪を背負う。 『高虎遺書録二百ヶ条』 … 「寝屋を出るより  其日を死番と心得るべし。  かように覚悟極まるゆへの  物に動することなし。  これ本意となすべし」 死線を乗り越えてきた高虎。 織部好みの最高傑作「破れ袋」 、 五島美術館蔵 のもので、 正しく銘は「 大ひびきれ 」とか。 豊臣方の 大野治房 宛の織部の 「今後これほどのものは  ないと思う」との添状が付く。 「破れ袋」を生んだのは伊賀、 古伊賀には" 筒井伊賀 "と" 藤堂伊賀 "、 織部同時代に領国とした 筒井定次 、 ただ筒井はリシタンでもあり、 治世は長続きせず改易となり、 おとりつぶしとなった。 その後… 高虎と伊賀焼との消息、 ほとんど残っていないのです。 「 ひょうげた器  ―三条せともの屋出土茶陶―」  京都市考古資料館  2012年特別展示より 織部の自刃を契機に、 " 織部狩り "なるものがあったとか… 三条中之町 というところにその痕跡、 大阪夏の陣を境にして、 織部焼なるものの生産が止まり、 半ばパニック状況に陥るがごとく、 公家や武家も町人も… 織部の痕跡を消したと言うのです。 織部切腹の命までは、 "織部好み"は一世を風靡、 その落差ゆえのアレルギー反応。 《織部松皮菱形手鉢》北村文華財団 秀吉恩顧が揺れ動いた" 大坂の陣 "、 織部一件もそのひとつのハズ。 裏切りや内通はつきもの… 家康を怒らせたもの、 それは" 侘び茶 "に備わる 織部なりの哲学だったのかと。 「蒲生四丁目に近い  若宮八幡宮に立つ 佐竹本陣跡 」 織部は" 冬の陣 " 陣中で、 敵の銃弾でかすり傷を負ったとか、 その知らせを受け家康は、 織部に薬を贈っていたのだとか。 冬の陣の負傷については、 もう少し詳しい話… " 今福の戦い "で手柄を立てた 佐竹義宣 の陣中見舞で起きた… 義宣と茶に興じていたとき、 陣を囲う竹束から 茶杓の竹を物色していた … 陣を守る盾となる竹束から竹? 敵兵

京の冬の旅2022 豊臣の大きな光と影 豊臣秀長

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豊臣秀吉の弟・秀長 の菩提寺、 もとは大和郡山市にあったもの。 秀長は1590年(天正19)1月に、 生涯を閉じていますが、 1588 年の" 小田原攻め "頃から 病気がちだったそうです。 大和大納言家は 甥の秀保 が 継いでいましたが、 秀保も不幸にして1595年逝去。 祭祀が疎かになると憂えたのは、 秀長が5番目の主の 藤堂高虎 … 自らの費用で 大徳寺内 に移しました。 大光院 の名称は、秀長の法号である 大光院殿前亜相春岳紹栄大居士 に 由来しています。 《豊臣秀長画像》  大和郡山市・春岳院 秀長はかつては" 秀吉の異父弟 "、 秀長の生年がはっきりせず、 秀吉の 父 弥右衛門 が亡くなった後、 母の"なか"が再婚した筑阿弥 との 子が秀長とされてきたからです。 その後の研究により、 秀長生年は1540年(天文9)と判明、 弥右衛門が亡くなったのは1543年、 " 秀吉・秀長同父兄弟"説が有力 です。 大光院の書付 によれば… 高虎は大徳寺内への移設後、 何度も秀長の菩提を弔うため、 墓所へ足を運ぶのみならず、 修復や年忌法要に意を尽くし、 秀長の死後35年経った後も 墓前に額突(ぬかず)いた とか… 《豊臣秀次像》  京都市・瑞泉寺 秀吉晩年は同一人物なのか ?? 淀殿、秀頼そして石田三成、 朝鮮出兵 行き詰まり のさなか、 関白 秀次に切腹を命じた のが、 1595年(文禄4) 7月のこと… 秀長家を継いでいた 秀保 は、 秀次の弟 でしたが、 療養先の十津川で病死した、 とされますが不審な死、 秀次切腹3カ月前 の4月のこと。 秀保の兄である 秀勝 も、 朝鮮の巨済島で病死 … 秀吉一族の血を引く男子は、 秀頼を遺し絶滅している のは、 不可解と感ぜずにはいられません。 《太平記拾遺 大和大納言秀長》  落合芳幾 1870年 秀吉の信長仕官後も、 しばらくは農民のままで、 部下を持てる身分になった頃、 家臣となったようです。 家臣第1号だった のかも… 秀吉にとって秀長の存在は、 大きな意味を持ちました。 自分がもう一人いるというか、 分身としての役割だったやも。 "秀吉晩年の暗黒期"は、 大きな光を失った後の必然 とも。 江戸期に入って一時焼失…