京の冬の旅2022 三"好み"のこと…聚光院・大光院ゆ


茶の湯の世界では、
「好み」あるいは「好む」という
独特の言葉が使われます。
茶道具に茶人の名を冠し"誰々好み"。
茶の湯の道具類のなかには、
創意工夫の茶人独自のデザイン、
職人の技術との共同作業によって
生み出されるという一面があります。
今でも"職家"と呼ぶ作家さんたち、
月の初めに家元との薄茶のなかで、
ごく自然な話し合いのなかから
生れてくるのだとか…

"聚光院"の茶室は江戸中期の
1739(元文4)年頃に建てられたとか。
切妻造のこけら葺
屋根の棟から両側に葺き下ろし、
両端を棟と直角に切った屋根の形式。
切妻造は伊勢神宮・出雲大社
社殿にも採用されていて、
に四方向に傾斜する
寄棟造より格上とされています。

三畳茶室閑隠席・四畳の桝床席
二畳の水屋・六畳二室など構成。
閑隠席は利休150回忌 1741(寛保元)年、
表千家7世・如心斎が寄進されたもの。
桝床席は表千家6世である
"覚々斎好み"とも言われています。

豊臣秀長画像
 奈良大和郡山市・春岳院

千利休は秀吉の政事にも関わり、
大友宗麟が大坂城を訪れた際、
豊臣秀長から
公儀のことは私に、
 内々のことは宗易に
」と
忠告されたと…
先日のNHKの『英雄たちの選択』
「戦国ミステリー
 千利休はなぜ死んだ?
 〜天下人秀吉との攻防〜
」…
"聚光院"での月法要
紹介されていました。

聚光院本堂の永徳の《花鳥図》
開くと…仏間が現れるのですが、
聚光院には"三千家"の墓所もあり、
持ち回りで毎月28日に月法要…
表千家が1月・4月・7月・10月、
裏千家が2月・5月・11月、
武者小路千家が3月・6月・9月…
12月のみ8日に執り行われています。

『絵本太功記』
「豊臣殿下 大徳寺に詣で給ふ図」


諸説ありますが…
大徳寺が千利休の木像を
楼門の上に安置した
として、
門をくぐる秀吉の怒りを買い、
自刃に追い込まれたという話。

二階部分は「金毛閣」と呼ばれます。

非公開ではありますが…
今も千利休はここにおられます。

『絵本太功記』より

ちなみにその千利休自刃の席
"聚光院"の閑隠席だったとも、
言われています。

こちら2018年に森美術館で開催された
建築の日本展」展示の復元"待庵"。
京都大山崎町の妙喜庵にある
本物は、内部への立ち入り禁止、
写真撮影禁止ということもあり、
原寸模型で利休の世界観が体験…
一旦入って後に身体が楽になり、
身体が自然と空間のゆとりを
実感させるのだとか。
そして荒壁と呼ばれる土壁、
コントラストをなす陰影。


対立軸にある?"黄金の茶室"、
秀吉は御所に運び込み、
正親町天皇に披露…
1586年(天正14)1月のこと。
翌年10月には北野大茶会へ…
さらに文禄の役がはじまると、
前線基地の名護屋城へ持ち込んだと。
秀吉没後は大坂城内にあったが、
大坂の陣で灰燼に帰す
写真は京都市が所有する復元です。

茶道といえば"正座"
すぐ思い浮かびますが、
等伯の描いた利休は"あぐら"
正座協会というのがあって、
調査にによると日本での正座は、
歴史が浅く100年ほどだとか…

無想庵「茶席の立ち居振る舞い
座り方、立ち方、歩き方。
以前の正しい座り方は"立て膝"
"あぐら"
だったのは、
次への動作のため…
どっしりと座っていては、
身に危険が迫ると危ういのです。

こちら大徳寺塔頭 大光院にある
茶室 蒲庵(ほあん)です。
"黒田如水好み"と伝わります。
もとは秀吉の弟である羽柴秀長
菩提寺として大和郡山市に建立、
その後 藤堂高虎により移転されたとか…。
もともとこの茶席についた露地には、
如水の子 黒田長政
加藤清正福島正則の三武将…
それぞれ一つずつ石を寄進に因んで、
"三石(みついし)の席"とも称されます。
実はこの蒲庵は経緯不明のまま
部材として廃仏毀釈時に
解体されていたものを
引き取ったのだそうでして…
如水"好み"に設えているのです。

《千利休像》 堺市博物館

千利休先妻は宝心妙樹で名は"お稲"
三好長慶の妹ともされますが、
夫婦仲は円満ではなかったとも
1577年にこの世を去っています。
能役者・宮王三入の妻であった
"おりき"が夫 三入が没すると、
息子 少庵とともに面倒をみ
後妻さんに迎えたとか…
一説では戦国茶人の
松永久秀の妻だったとも。

大光院へ続く石畳…
最後に改めて茶道の作法の話
お辞儀の仕方は"真・行・草"、
御点前の格も同じく3つ。
千三家、三畳茶室、三石の席、
三好、宮王三入
"利休門三人衆"も意趣に事欠かず、
キリシタン大名  の 蒲生氏郷
ガラシャ夫人が妻の細川忠興
そして芝山監物という茶人武将。
《寿海老人 千利休》
 豊国 1859年

杉本苑子氏の『利休 破調の悲劇』、
「侵略戦争を目論んで
 堺から博多へと乗りかえた
 秀吉の冷酷な覇者気質
 それに取り入り
 利権獲得のため陰で
 猛運動を展開した
 博多商人の野望と打算
 官僚機構を基本にすえた
 管理体制を大名支配の理想と考え、
 利休をその障害物と見た
 石田三成ら官僚グループの意図。
 この三者が合体
 利休を共通のターゲット
 として狙ったのが
 この賜死事件の真相だった」と…

『英雄たちの選択』の括りで
〆るとさせていただきます。
これまでの定説と一線を画し…
"黄金の茶室"の綺羅びやかさ、
茶室に入ると金ピカを感じさせず、
来迎の光に包まれるのだそうで、
"侘び茶"の系譜に黄金の茶室もあり、
秀吉と利休の共作だったのだと…

聚光院に6月に花をつける 沙羅の花
ハラハラと落つる姿は利休のお手植え
枯山水には不向きとも思えるが、
ちなみに3代目とされています。

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