京の冬の旅2022 豊臣の大きな光と影 豊臣秀長


豊臣秀吉の弟・秀長の菩提寺、
もとは大和郡山市にあったもの。
秀長は1590年(天正19)1月に、
生涯を閉じていますが、
1588 年の"小田原攻め"頃から
病気がちだったそうです。
大和大納言家は甥の秀保
継いでいましたが、
秀保も不幸にして1595年逝去。

祭祀が疎かになると憂えたのは、
秀長が5番目の主の藤堂高虎
自らの費用で大徳寺内に移しました。
大光院の名称は、秀長の法号である
大光院殿前亜相春岳紹栄大居士
由来しています。

《豊臣秀長画像》
 大和郡山市・春岳院


秀長はかつては"秀吉の異父弟"、
秀長の生年がはっきりせず、
秀吉の父 弥右衛門が亡くなった後、
母の"なか"が再婚した筑阿弥との
子が秀長とされてきたからです。
その後の研究により、
秀長生年は1540年(天文9)と判明、
弥右衛門が亡くなったのは1543年、
"秀吉・秀長同父兄弟"説が有力です。

大光院の書付によれば…
高虎は大徳寺内への移設後、
何度も秀長の菩提を弔うため、
墓所へ足を運ぶのみならず、
修復や年忌法要に意を尽くし、
秀長の死後35年経った後も
墓前に額突(ぬかず)いた
とか…

《豊臣秀次像》
 京都市・瑞泉寺


秀吉晩年は同一人物なのか??
淀殿、秀頼そして石田三成、
朝鮮出兵 行き詰まりのさなか、
関白 秀次に切腹を命じたのが、
1595年(文禄4) 7月のこと…
秀長家を継いでいた秀保は、
秀次の弟でしたが、
療養先の十津川で病死した、
とされますが不審な死、
秀次切腹3カ月前の4月のこと。
秀保の兄である秀勝も、
朝鮮の巨済島で病死
秀吉一族の血を引く男子は、
秀頼を遺し絶滅している
のは、
不可解と感ぜずにはいられません。

《太平記拾遺 大和大納言秀長》
 落合芳幾
1870年

秀吉の信長仕官後も、
しばらくは農民のままで、
部下を持てる身分になった頃、
家臣となったようです。
家臣第1号だったのかも…
秀吉にとって秀長の存在は、
大きな意味を持ちました。
自分がもう一人いるというか、
分身としての役割だったやも。
"秀吉晩年の暗黒期"は、
大きな光を失った後の必然
とも。

江戸期に入って一時焼失…
文政年間(1818-1830)に
藤堂氏によって再建された客殿。

大光院客殿に安置されている
豊臣秀長木像》は、
秀長三回忌法要に造られたもの。
大光院開祖の古渓宗陳
二世の蘭叔宗秀の木像とともに…
古渓宗陳は千利休の参禅の師
秀長の葬儀で導師を務め、
大光院…との戒名を付した。

客殿の襖には狩野探幽 筆と伝わる
雲龍画》が収まっています。
奥州伊達家の伝来なのですが…
仙台には政宗自筆和歌の
短冊貼込の政宗像が伝来、
幕府お抱え絵師の狩野探幽は、
戦陣での伊達政宗を描いたとか…
おそらく藤堂家とともに、
"大光院の復興"に当時の
伊達家が尽力した
のでしょう。

屏風の木枠を外し表装し直したもの、
墨の濃淡で迫力ある龍の姿も必見。

温厚篤実と伝えられる豊臣秀長
立身出世のために
主君を変えた藤堂高虎
元首相の愛著としても注目された
『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』
堺屋太一さんは冒頭で
「史上に優れた首長は数多い。
 天才的な参謀も少なくない。
 才能豊かな専門家や忠実勇敢な
 中間管理者も多数存在する。
 だが、よき補佐役はごく少ない。
 そして、補佐役を描いた物語は
 なおさらに少ない…

《豊臣秀長像》
 京都市・永観堂


秀長のもうひとつ顔
"豊臣政権の金庫番"。
秀長が死去したとき、
金子・銀子が大和郡山城に、
莫大な量が蓄えられていたと。
鳥取城攻め、高松城水攻め
兵糧や堤防用の土嚢の調達、
それを担っていたのは秀長でした。
播磨攻めは生野銀山の獲得…
秀吉の懐具合は秀長の腹
"補佐役"の評価は局面が
変われば一変するのは世の通例、
実に見極めにくいものなのです。

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