京の冬の旅2022 織部寺の西陣興聖寺


40年ぶりの公開って…
実はご近所の方も見たことのない、
織部寺の西陣 興聖寺

鞍馬街道でもある堀川通に面し、
いつも大きなお寺だなぁ〜と、
祖父母が西陣で西陣織を営んでいた
ということもあり門前は旧知…

開山は1603年(慶長8)のことで、
虚応円耳(きいんえんに)という…
僧俗を問わず仏の教えを
世に広く説かれいて、
参禅に熱心に通っていた大名、
そのひとりが古田織部その人。

「お寺という場所の本来のはたらき、
 そして教えのあり方を、
 現代においても
 大事に守っていきたい」
どなたも歓迎とホームページに…
ただ観光目当てはご遠慮とあります。

「京の冬の旅」のHPにより…
祠堂  "雲了軒" におられる
束帯姿の古田織部像
以前は全くの非公開寺院でしたが、
2017年ごろからご住職が代替わり…
少し公開の機会が増えたとか。

"雲了軒" は織部の院号から
名付けられたものでして、
山並みを象った欄間や、
醍醐棚を反転させたような
"違い棚"が印象的
でした。
茶席・雲了庵も併設されていて、
10畳の広間に台目6畳分の
相伴席があります。

《古田織部画像》部分 佐川美術館

織部こと古田重然は、
1544年(天文13) 美濃国 生まれ。
父親は守護の土岐家に仕える武士とも、
美濃が織田信長の領国になると
信長に従っていたそうです。
『信長公記』に古田織部は、
"古田佐介"の名で登場していて
1578年(天正6)の羽柴秀吉
播磨攻略に従軍していたこと、
摂津伊丹城主・荒木村重 謀反に、
村重に従っていた清秀を説得…、
信長陣営に引き戻したことなど。

織部の茶道の師は千利休
利休は22歳下の織部の資質を
高く評価していたようですが、
利休の高弟7人「利休七哲」に、
織部を含むかどうかは諸説あるとか。

「御音信 とだえとだえす
 むさしあぶみ さすがに
 遠き道ぞとおもへば」

武蔵鐙(むさしあぶみ)の文」は、
1590年(天正18)6月に武蔵転戦の
織部宛の利休の書状
御音信は"ごいんしん"と読みます。
織部からの和歌への返礼、
異郷での苦しい戦いを思いやり、
花入に結んで送った利休。

《千利休図》長谷川等伯
 正木美術館

もう一つは、
利休が秀吉によって
死を命じられたときのこと…
淀から堺へ下る利休の見送りは、
織部と細川忠興だけでした。

秀吉を憚って姿を多くの弟子、
行動で示したのは二人でした…
利休は自作の茶杓を贈ったという。

《古田織部像》 名古屋城

織部異名 "剽(ひょう) げもの"…
"利休好み"とまったく異質な、
ひずみがあって派手な色彩、
大きく破れかけた…"織部好み"。
関ケ原の戦いに東軍に属し貢献、
徳川秀忠の茶頭となるなど、
「天下の行方」は見えていた
起案の南禅寺の僧 清韓禅師
織部は問題が起こった直後、
茶席に招いてもてなしています。
淀殿・秀頼母子が自刃すると、
伏見にいた織部への疑い…
罪状は 大坂方への内通
大坂に向かった直後 二条城に放火、
大坂城から繰り出す兵と家康挟撃
そう画策されたとの嫌疑。
古田家の重臣 木村宗喜らが
京都所司代に捕縛され…
「かくなるうえは
 入り組み難きゆえ、
 さしたる申し開きもなし…」
家名が絶え織部の思いは、
この言葉以外は伝わりません。
本堂前 "生死事大 慎句放逸"、
「無常迅速の偈」
"生死事大 無常迅速 
 各宜醒覚 慎勿放逸"
人間にとって、
生死(しょうじ)は誠に大切なこと
人の心は様々なものに
とらわれていても、
時の流れはいつも同じように
速やかに流れ去って行く。
おのおの、
しっかりとこの現実を見つめ。
無駄に時を過ごしてしまわないよう
気をつけるように。
織部は現実を見極めたのかも

"茶の湯の交わりと政治とは別"、
西陣興聖寺の "雲了軒"に座す
織部茶壺に守らていうるよう…

・西陣 興聖寺
 武将茶人・古田織部ゆかりの禅寺
 地下鉄烏丸線 鞍馬口駅から徒歩13分
 市バス「天神公園前」下車すぐ
 雲了軒内の写真は「京の冬の旅ガイド」より

※このブログは産経新聞「渡部裕明の奇人礼讃

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