太閤秀吉を辿る vol.11 加藤清正と島津義弘の虎退治


《朝鮮之役ニ清正猛虎ヲ撃》
 橋本周延
1889年

豊臣秀吉の子飼い衆の加藤清正
幼名が "虎之介"とだったこともあり、
虎との縁は深く豊臣秀吉の"虎"への執着
歴史のなかで繋がっていくというお話。

『絵本太閤記』「清正虎退治」

『絵本太閤記』にはこうあります…
「清正が野営していた時、
 一匹の虎が馬をくわえて
 飛び出してきた。また、
 虎は小姓をも食い殺されたため
 清正は山中を狩り立てる。
 大岩の上から大きな虎を
 見つけた清正は、
 自ら虎を仕留めんと、
 家来たち百人ばかりが鉄砲で
 撃とうとするのを押しとどめ、
 襲い掛かる虎の喉を狙って
 鉄砲を撃ちこむと、
 さしもの虎も息絶えた。
」と。

《和藤内虎狩之図》歌川国芳

近松の浄瑠璃『国性爺合戦』の
主人公 和藤内が雪の中、
虎退治する情景の三枚摺。

槍の先には大きな虎…
咥えられもう抵抗することのない
武者の身体から静けさが漂います

長烏帽子に蛇の目紋の
槍を持つ和藤内…

明国人の父と日本人の母の間に
日本で生まれた和藤内が、
父の祖国の復興のために渡った
唐土で虎退治を行う有名な場面。
加藤清正であることを示すに十分…
幕府の出版に対する検閲により、
加藤清正としては描かずです。


加藤清正の虎退治は近代の引札にも…
でも一番の疑問は虎之介と名乗る
加藤清正がなぜ虎退治したのでしょう。

『絵本太閤記』「加藤虎之助の伝」

清正の秀吉の出会いについては、
裏付ける当時の史料が残されておらず、
後世の創作という可能性が高いのですが…
領地に関する確認できる史料においては、
清正が19歳の時に秀吉から
近江国120石を与えられるのが初見


『絵本太閤記』「豊臣家奥業勇士之像」

長浜城下で乱暴者を召し捕った褒美、
200万を加増されたとの『清正記』の
記述も後期の創作と思われるのです。
伝記などには「虎之助」とありますが、
秀吉が宛てた手紙には「虎介」
清正の20歳ころの花押もその組み合わせ
正しくは"虎之介"なのだとされます。

《島津家朝鮮虎狩絵巻》
 九州国立博物館 蔵

実は虎退治のオリジナルは、
島津義弘なのだとも伝わっています。
義弘は二度の朝鮮出兵に従軍、
大きな戦功を挙げた武将で、
帰還後に加増も受けた"鬼島津"。
島津義弘は文録の役が58歳、
慶長の役の時が63歳でした。
朝鮮出兵での虎狩を描いた絵巻は、
1595年(文禄4)3月の秀吉命による
島津義弘、忠恒父子の釜山付近の
巨済島滞在の虎退治、
昌原(チャンウォン)での様子…
2匹の虎を捕らえ肉や骨を
秀吉に献上したとの記録が残ります


《島津家朝鮮虎狩絵巻》
 九州国立博物館 蔵

ただ"虎退治"には犠牲者が出たのです。
仕留めようとした時に別の虎、
火縄銃は雨で役に立たず…
数で勝負と1人が斬りかかるが、
噛みつかれてあえなく谷底へ、
虎退治に2人の犠牲者が出たととか。
同じく朝鮮出兵した黒田長政や、
加藤清正宇喜多秀家などは
いずれも30代前後であり、
義弘は数少ないベテラン武将でした。

《高麗虎狩図屏風》左隻より
 永井慶竺 都城島津邸 蔵

1592年(文禄元)冬にも
秀吉に虎を献上していたそうで、
この時は嫡男・久保の手によるもの。
ただ…翌1593年9月に、
朝鮮の巨済島で久保は病死、
21歳の若さだったこともあり、
島津家にとっては苦い遠征に。

島津家では史実にもとづいた
"虎狩"を薩摩武士の教育に利用
屏風や絵巻が作られたのです。

《本朝水滸伝剛勇八百人一個
  膳臣巴提使》 
 歌川国芳
 大英博物館蔵

「巴提使は欽明帝の御宇の
 人なり遣使を蒙て
 百済国に至るに泊にて
 一子を虎に噬れ足跡を尋
 雪山に分入恨を晴す」
膳臣巴提使(かしわでのはのし)は、
日本書紀』にみえる
欽明天皇の時代の武人ですが…
子の恨みを晴らすとは…
島津義弘に通ずるよう
に思えます。

《正清両獣を生捕て
 殿下の陣中に引しむ》落合芳幾

主君 秀吉の前に生け捕りにした
虎と象を、引き連れてきた場面。
武将たち恐れおののくも、
積極果敢な清正が見て取れる浮世絵。
歌舞伎や浄瑠璃で人気を博した
『絵本太閤記』は1804年に発禁。
天正期(1573-1585)の武将を
描くことも禁となるので、
列せる武将も"尾西行長 赤野長政"など、
秀吉は陣幕で顔を見せません。

《正清猛虎討取図》
 月岡芳年 1864年

何故 秀吉は虎を欲したのか??
"虎が不老不死に効く"という話…
甥の秀次を関白に、
豊臣の後継が決まったのに、
1593年(文禄2)に秀頼が誕生
"棄"とも棄丸とも…鶴松の夭逝
二度目の淀殿の子への執着。
後世の秀吉の行動は
別人格を思わせるのですが、
1日も長く生き続けたいとの思い。
医師や学者に相談して
行き着いたのが虎…
厳密には"虎の脳みそ"とか。
虎は塩漬けにされ樽に詰めて、
秀吉の元へと送られたと伝わります。

市来の七夕踊
 文化遺産オンラインより

島津の虎退治は全国的知名度では
かなり見劣りするのですが、
鹿児島いちき串木野市
大里地区で残る七夕踊に"虎退治"
島津義弘の朝鮮の役の凱旋
祝賀芸能だったといわれ、
踊りの扮装には丸に十の字
島津氏の紋がつけられます。

《御薬はみがき 清正香》
 歌川芳艶 


徳川の世では虎退治には、
外様島津よりも清正の方が、
座りが良かったのでしょう。

《虎列刺退治》1886年

人々をおさえつけている
怪獣は虎狼狸(こ・ろ・り)
狸は睾丸ですが…
やはりここにも清正の片鎌槍
愛用の十文字の槍は虎との戦いで、
片方の刃を折られてしまった、
という伝承があるのです。

《疫癘神 加藤清正の手形》
 1858年

名将言行録』清正の虎退治では、
虎とは偶然の遭遇だったと…
竹を組み合わせて縄で縛った
"もがり"を飛び越え虎が出現
清正の小姓であった上月左膳は、
虎に虎に噛み殺されて絶命…
翌日清正は大きな岩の上より、
虎と対峙し口を開けて
襲ってきたところをズドン。
"清正の虎退治は鉄砲"。

《正清公虎狩之図》歌川芳員 

"もがり"は漢字で書くと"虎落"…
さすがの清正も取っ組み合い、
こんなのは無理でしょうな。
虎は朝鮮の象徴でもありますから…
虎退治は朝鮮征討を意味する
そんなトコロだと思います。

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