京の冬の旅2022 藤堂高虎と古田織部の"破れ袋"
「身の上を 思へば悔し 罪とがの
一つ二つに あらぬ愚かさ」
藤堂高虎の詠んだ短歌です。
率直な思いが滲み出ています…
立身出世のためとは言え、
乱世を生き抜き罪を背負う。
『高虎遺書録二百ヶ条』…
「寝屋を出るより
其日を死番と心得るべし。
かように覚悟極まるゆへの
物に動することなし。
これ本意となすべし」
死線を乗り越えてきた高虎。
織部好みの最高傑作「破れ袋」、
五島美術館蔵のもので、
正しく銘は「大ひびきれ」とか。
豊臣方の大野治房宛の織部の
「今後これほどのものは
ないと思う」との添状が付く。
「破れ袋」を生んだのは伊賀、
古伊賀には"筒井伊賀"と"藤堂伊賀"、
織部同時代に領国とした筒井定次、
ただ筒井はリシタンでもあり、
治世は長続きせず改易となり、
おとりつぶしとなった。
その後…高虎と伊賀焼との消息、
ほとんど残っていないのです。
「ひょうげた器
―三条せともの屋出土茶陶―」
京都市考古資料館
2012年特別展示より
織部の自刃を契機に、
"織部狩り"なるものがあったとか…
三条中之町というところにその痕跡、
大阪夏の陣を境にして、
織部焼なるものの生産が止まり、
半ばパニック状況に陥るがごとく、
公家や武家も町人も…
織部の痕跡を消したと言うのです。
織部切腹の命までは、
"織部好み"は一世を風靡、
その落差ゆえのアレルギー反応。
《織部松皮菱形手鉢》北村文華財団
秀吉恩顧が揺れ動いた"大坂の陣"、
織部一件もそのひとつのハズ。
裏切りや内通はつきもの…
家康を怒らせたもの、
それは"侘び茶"に備わる
織部なりの哲学だったのかと。
「蒲生四丁目に近い
若宮八幡宮に立つ 佐竹本陣跡」
織部は"冬の陣" 陣中で、
敵の銃弾でかすり傷を負ったとか、
その知らせを受け家康は、
織部に薬を贈っていたのだとか。
冬の陣の負傷については、
もう少し詳しい話…
"今福の戦い"で手柄を立てた
佐竹義宣の陣中見舞で起きた…
義宣と茶に興じていたとき、
陣を囲う竹束から
茶杓の竹を物色していた…
陣を守る盾となる竹束から竹?
敵兵がみすまして鉄砲を放った。
『近古武事談』には、
武士にあるまじきとして
織部への嘲りが綴られています。
織部寺、堀川の屋敷を引き継ぎ、
茶道具を接収したのもまた高虎。
大きな価値を生む地産品を
領主が利用しない手はないはず、
織部伊賀に関与したか否かでなく、
痕跡として残さない。
織部との関わり自体を消去…
藤堂家自衛の最善の企て。
信長は足利義昭を京から追放…
その一方で将軍家蒐集した
名物には異常なほど執着した。
切腹で痕跡を消されながらも、
利休好みに"大名物"として、
家康や秀忠の手のものに。
それでは"織部好み"は、
どうなったのでしょうか。
陣を守る盾となる竹束から竹?
敵兵がみすまして鉄砲を放った。
『近古武事談』には、
武士にあるまじきとして
織部への嘲りが綴られています。
織部寺、堀川の屋敷を引き継ぎ、
茶道具を接収したのもまた高虎。
大きな価値を生む地産品を
領主が利用しない手はないはず、
織部伊賀に関与したか否かでなく、
痕跡として残さない。
織部との関わり自体を消去…
藤堂家自衛の最善の企て。
信長は足利義昭を京から追放…
その一方で将軍家蒐集した
名物には異常なほど執着した。
切腹で痕跡を消されながらも、
利休好みに"大名物"として、
家康や秀忠の手のものに。
それでは"織部好み"は、
どうなったのでしょうか。
山田芳裕さん原作の『へうげもの』、
講談社『モーニング』連載で、
Webアニメを経て2011年春には、
NHK BSプレミアムにてアニメ化。
古田佐助こと織部が主人公…
『茶道四祖伝書』にこうあります…
「数寄と云ハ違テするが
易(宗易=利休)のかゝりなり。
此故ニ古織(織部)ハ能。
細川三斎(忠興)ハ少もちがわで、
結句それ程ニ名を得取不給と云」
「ヘウゲモノ」といわれた茶碗といい、
光をふんだんに取り込んだ茶室といい、
織部のパフォーマンスは、
利休が提示した侘び茶の極北
とは違う世界を求め、
それを具現化していました。
「大井戸茶碗 銘 須弥」
東京・三井記念美術館
織部の評価をたどると、
織部の評価をたどると、
後世の茶人は辛辣そのもの…
細川忠興の『細川三斎茶湯之書』、
「織部は目も利かず、
おおむね茶の湯も下手であり、
天下一の宗匠になれたのは、
他の多くの名人たちが
死んでしまったからだ」。
利休の孫に当たる千宗旦も
「織部という人は今は天下一の
宗匠の評判をとっているが、
炉の中の扱いはもってのほかの
段取りであった。」
家光の老中を務めた松平信綱の父、
大河内久綱はもっと辛辣…
「世の宝を損なう人だ。
名物が幾度の戦乱を経て
今の世に伝わるのは、
神様の加護のおかげなのに、
自分ひとりの嗜好に任せて
わざわざ壊すなど、
ろくな死に方はしないだろう。」
細川忠興の『細川三斎茶湯之書』、
「織部は目も利かず、
おおむね茶の湯も下手であり、
天下一の宗匠になれたのは、
他の多くの名人たちが
死んでしまったからだ」。
利休の孫に当たる千宗旦も
「織部という人は今は天下一の
宗匠の評判をとっているが、
炉の中の扱いはもってのほかの
段取りであった。」
家光の老中を務めた松平信綱の父、
大河内久綱はもっと辛辣…
「世の宝を損なう人だ。
名物が幾度の戦乱を経て
今の世に伝わるのは、
神様の加護のおかげなのに、
自分ひとりの嗜好に任せて
わざわざ壊すなど、
ろくな死に方はしないだろう。」
《撰雪六六談 英雄の風雅》
二代目 歌川芳宗
利休屋敷で朝顔茶会を所望の秀吉、
庭の朝顔は全部刈り取られていて、
首をひねりながら茶室に入ると、
床に一輪だけ見事な朝顔…
『茶話指月集』のエピソードは、
"秀吉が利休の趣向に感心した"と
締められているのですが、
小説やドラマでは秀吉との確執、
そんな描かれ方をしています。
《骸骨の茶の湯 下絵》河鍋暁斎
利休が切腹を仰せつかったのは、
北条氏を小田原合戦で破った翌年。
名実ともに天下人となった秀吉…
織部もまた天下人となった家康に…
"天下人"が故の"ろくな死に方"を
させなかったのかも知れません
暁斎の茶の湯で点てるのは、
利休なのか織部なのか…
利休なら客人は秀吉と三成?
織部なら家康と高虎…知らんけど。
利休なのか織部なのか…
利休なら客人は秀吉と三成?
織部なら家康と高虎…知らんけど。