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鞆の浦めぐり⑥〜阿伏兎観音の絶景へ

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ぷらぷら日記.13「阿伏兎観音」編 で イチバン気になっていた場所。 鞆の浦めぐりもこれがラスト!! ポニョのお母さん... 「 グランマンマーレ を訪ねて 」編です。 電車とバスで行く旅には かなりディープなスポットであります。 というのも... イチバン早い 鞆の浦発のバス に乗っても、 帰りのバスまでの待ち時間が半端ない。 バスでも鞆の浦から20分あまりの距離 マイカーだったらきっと楽だっただろうけど。 「 瀬戸内マリンビュー 」にも乗りたかったしね。 「 あぶと観光汽船 」の看板が掲げられていた。 あぶと館さん の所有する専用クルーザーで、 10名以上だと60分の 瀬戸内クルージングが楽しめるのだという… 阿伏兎ノ瀬戸 と呼ばれる狭い海峡ぞいに、 バス停から7分くらい歩いて 沼隈半島 の南端へ… あまりに普通の家っぽいのだが、 「阿伏兎観音」そして 「 臨済宗磐台寺 」 (ばんだいじ) とある。 一抹の不安がよぎりつつ・・・   階段をあがると 寺務所がありました… 声をかけるといいお返事が奥から〜〜〜。 拝観料の100円をここで払って進みます。 境内の中に入るとすぐにあるのが 桃山様式の禅宗方丈建築 「 磐台寺客殿 」。 そして...裏手から観音堂へと続く石段へ。 朱塗りだけどお寺さんです... 途中に鐘堂がありました。 結構な急勾配な階段を振り返ると、 こんな感じでした。 お堂は「 土足厳禁 」なのですが・・・ 気のせいではなく 床が斜めになっちょる。 しかも海側に傾いてるし( ;∀;) 靴を脱いでフラッとしたのでビビリました。 正気を取り戻して先をに進むと。 見下ろすと海原が広がっていました。 お堂正面に回って中を見るとさらにビックリ。 大おっぱい祭り ???? 安産祈願らしく全て手作りみたいでした。 左右に絵馬が飾ってあって、 正面にはお賽銭箱がありました。 背後に不安を感じながらもしっかり祈願??? でもナンの御利益なのか不安を抱きつつ。   三山次郎右衛門という漁師が、 十一面観音の石像を網で引き上げ、 阿伏兎岬に安置したのが 始まりやと伝わります。 そして海岸にある石の三重塔へ。 下から見る観音堂はまさに絶景です。 穏やかなさざ波に 急峻な岩肌との対比が絶妙。 荒々しい岬に立つお堂の姿は、 東洋の雰囲気も漂います。 瀬戸

鞆の浦めぐり⑤〜ポニョのいる風景

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「 崖の上のポニョ 」... そこに出てくる風景は、 宮崎駿 さんが閃いた情景なんだけども... 鞆の浦にはやっぱり 宗介 と ポニョ が気配を感じます。 穏やかな海辺の風景や... 洋館らしき建物のたたずまい。 古きよき時代の匂いが詰まってます。 高台から眺めると。。。 ホント そのものなのです。 お世話になった 「 ともてつバスセンター 」には、 ポニョグッズがあふれていましたし。 ポニョまっぷ もいろんなとこに。 手づくりやから。。。いいですね。 町が水没するシーンとかを思い出すと... みんなが避難した【 山の上ホテル 】は 雰囲気がよく似てる仙酔島の 国民宿舎 か? 船で避難するときにみえたのは... たしか【 いろは 】の幟旗だったような。 次回はポニョのお母さん... 「 グランマンマーレ を訪ねて」です。

鞆の浦めぐり④〜保命酒のふるさと

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汐待ちの港 鞆の浦の「 保命酒 」。 その創醸は大坂生玉で開業していた 医師 中村壌平利時の長男の 吉兵衛吉長 が、 家伝の薬法を用いて製造販売したのが始まり。 万治2年(1959年)に 製造販売したのが始まりだそうです。 長崎から薬草が入り、大坂へと送られる。 絶好なロケーションが 「鞆の浦」 だったということなのでしょう。   「 保命酒 」は清酒とちがって、 餅米を主原料にした焼酎 で製造した漢方薬酒。 これに十六種類の薬味が漬け込まれています。 中村家がにぎっていた専売権は、 明治に入って複数の業者に引き継がれて、 今でも鞆の浦のあちこちに看板が見られます。 「 鞆の津ミュージアム+Cafe 」では、 保命酒の 生キャラメル なんてのに。 兵庫県三田市にある 「 パティシエエスコヤマ 」の レシピで作られたものだそうです。 クールダウンに飛び込んで 小腹も満たしました(・ω・)v ここのパンケーキは、あの 「 クラブハリエ 」のプロデュースもの。 銅板で焼かれた生地は、 「中はふわっと 外皮はしっかり」でした。 なまこ壁のある路地を抜けると... 保命酒のルーツである「 太田家住宅 」。 主屋や保命酒醸造蔵など9棟からなっていて、 敷地の四方は道路で囲まれています。 江戸時代中期から後期にかけて、 保命酒屋「 中村家 」によって、 家業の隆盛とともに拡張増築され、 明治に入り「太田家」に受け継がれたものです。 幕末維新には、尊皇攘夷を主張する三条実美ら 7人の公卿が公武合体派によって 都を追放され長州に下ったおり鞆港に入り、 保命酒屋に立ち寄ったのだそうです。 長州より再び上京した時も、 主屋と別宅に宿泊したとか... 「 鞆七卿落遺跡 」の名で知られる所以です。 西国名所図絵「鞆の浦」