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大仙公園のあおぞら

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G20も無事終わったようで、 梅雨空で5月の ハレゾラ を お届けします。 大仙公園の南半分に広がる 日本庭園…もとは、 万代(もず)新田 と 呼ばれたところ。 作庭は「昭和の小堀遠州」 とも言われた 中根金作 。 海外の日本庭園誌で 10年以上1位の 座を守り続けている 「 足立美術館庭園 」も 彼の作品です。 1917年静岡県の天竜村に出生、 県立浜松工業学校を経て、 東京造園学校を卒業。 東京造園学校は今の現 東京農大 。 石津渓 (いしづけい)。 堺を流れる石津川を あらわしています。 遠くに 平和塔 を望む。 公園内にある 与謝野晶子 の歌碑 「花の名は   一年草もある故に忘れず  星は忘れやすかり」 天を指さすかのようなカタチ、 第二次「 明星 」の終刊を 詠ったものだそうです。

エリア履中vol.3 文珠山古墳

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百舌鳥古墳群からポツンと 離れたところにある 「 エリア履中 」なのかは、 不明ですが… 名称は「 文殊塚古墳 」、 由来は日本三大文殊の ひとつとして有名な、 堺市西区にある 家原寺 の 寺領であったこと。 一昔前までは、 近所の子どもたちの 遊び場だったそうですが… 今は墳丘はフェンス越しに 眺めることしかできません。 埋葬部の構造や副葬品、 周濠の有無は不明… 円筒埴輪 の採集が 確認されています。 墳丘は戦時中に 防空壕 が造られたとか… 樹木が多いと根が張るし、 葺石がないと 土盛りは流れるし… 保存ってのは、 実に難しいものですね。 近くにある 「 向ヶ丘八幡宮 」 桜が咲く頃、 春季大祭 には ふとん太鼓で 賑やかだそうです。 百済川左岸 の 台地上にあって、 前方部を西に向けた 前方後円墳。 遠くに履中陵を 見下ろす位置。 どんな人物が 埋葬されたのか… 孤高のプリンス ?、 謎に包んでおくのも 一興かもしれません。 「文珠山古墳」 ・前方後円墳 ・墳丘長59.1m、後円部直径36.3m、  前方部幅27.3m、高さ4m ・5世紀 ・堺市西区上野芝向ヶ丘町1丁

百舌鳥古墳群をあるく⑨ いたすけ古墳

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橋のかかる古墳 … 正確には朽ちた コンクリートの橋が 残る珍しい古墳 「 いたすけ古墳 」。 何のための橋? 目的は “古墳を壊すため” 。 1950年代にこの古墳を 宅地造成する計画があり、 墳丘の土砂を出すために 橋が架けられたのです。 2017年8月8日 読売新聞 「イタスケ古墳の  地主さんは素封家で、  古墳をこのままにしておいても  地元は発展しない、  宅地造成をして家が増えれば  人も集まりに賑わう、  といったお考えのようでした。  この古墳を買収したD建設会社は、  当時古墳の 堀の水利権 が有るために、   “池をめぐらせた住宅地” という  キャッチフレーズで新聞広告し  売り出そうとしたようです。 」※1 1955年10月29日朝日新聞 堺市文化財の シンボルマークは、 「いたすけ古墳」出土の 衝角付冑型 埴輪 なのです。 いまは 堺市立博物館 に 収蔵されていて実物を 見ることができますが… 実は… ある中高生の兄弟が 保存運動中に盗掘。 図書館金庫に 保管されお蔵入り、 させられていたとか。 百舌鳥古墳群だけでも かつて100基以上の 古墳がありました。 しかし… 急速に進んだ宅地化により、 半数以上が消失。 いたすけ古墳に橋が 架けられたのと同じ頃、 近くの 大塚山古墳 も その波に飲まれて、 姿を消しています。 「いたすけ古墳」の ほど近くにある 「 善右ヱ門山古墳 」。 百舌鳥川北岸に位置する方墳、 周囲に 明確な周濠を設けず 、 いたすけ古墳の外堤と 接するように築造。 いたすけ古墳の付随する 古墳と考えられています。 しかるに…「いたすけ古墳」 の 陪塚に指定 されています。 「いたすけ古墳」の話に… 「保存が望みだけど  民間業者の営利活動を  止めるのも理不尽で  可哀想だしなぁ」… 専門家の意見が出された、 そんな時代でもありました。 古墳の保存活動にも 多大な尽力を尽くされた 三笠宮殿下 のご発言。 「仁徳陵や履中陵など  大きな古墳だけを  残しておけばいい  ということではなく、  小さな古墳と含め  百舌鳥古墳群全体を  捉えていかなければならない」 宅地化の計画は消えましたが、 橋は残りました。 風雨にさらされ続け、 木は腐食し、橋桁は重さに 耐えきれずに崩落… 世界遺産登録にあわせ、 橋の残骸を

エリア反正vol.3 反正陵の陪塚たち

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反正陵にも陪塚 がいくつか、 こちら「 鈴山古墳 」。 一辺22m程の 方墳 は、 すでに一部が削られ… 埴輪が立てられ、 濠がめぐらされていた と考えられています。 なんかしら 方違神社 の 「 鈴山大明神 」との関係が あったのかもしれません。 むかしは 節分の夜 には、 鈴山の麓で夜を明かす… そんな風習があったそうです。 神社でお参りをするとき、 神官がお祓いをするとき、 大小の違いはあるものの、 鈴を振りますね 。 「お参りに来ましたよ」 という合図でもあります。 アルピニストの熊除けの鈴、 大自然との境界 に立ち入るとき、 鈴の音 はキーなのですね。 もうひとつの陪塚 「 天王古墳 」。 円墳のようにも見えますが、 1辺11m程の方墳です。 この2つの陪塚…反正陵の 周りは砂利道が多く、 たどり着くのに四苦八苦。 陵の前にはこんな 「 てくてくろーど 」の双六が あったんだけど…迷いました。 百舌鳥古墳群には44基中5基しか 「 方墳 」がありませんが… そのうちの2基がここに 残っていることは、 「考古学的に注目に値する」 ことなんだそうです。 平安時代から 熊野詣 が 盛んに行われていましたが、 反正陵西側を通っていた のが「 熊野街道 」でした。 方違神社北方にあったと 伝わる「 境王子跡 」。 もっこりした所に石段。 こんな伝承が残ります。 「 応神天皇 の末子の   菟道稚郎子 が皇位を  異母兄の 仁徳天皇 に譲るため、  都からさすらい出て、  この地で   食を断って絶命 したという」。 向かいに見えるのが 「 王子ヶ飢公園 」 おうじがうえ と読み、 伝承に繋がる名前です。 1929年頃まで 墓地だった名残が、 残っていました。 方違神社の旧参道は、 いまは「 けやき通り 」 という名がついています。 欅(ケヤキ) が植えられたのは、 1965年のことです。 府道大阪中央環状線から 大和高田線までの約1kmに 約170本が植えられました。 2001年に 「 けやき通りまちづくりの会 」 が発足しています。 けやき通りを 南へ下りていくと… 芝生の盛土 が見えてきます。 ここにも古墳?陪塚?? 登録有形文化財の 「 旧天王貯水池 」なのです。 正面入口には、 当時の最新の建材である