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エリア履中vol.2 七観音古墳・寺山南山古墳

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「七観音古墳」 履中天皇陵古墳の北側、 大仙公園の南入口にあり、 履中陵の陪塚 と 考えられています。 鉢巻状の壁での保存は、 原形は少し違うそうです。 墳丘全面に サツキ が植えられ、 大きな植木鉢 という人もいます。 1983年の市の調査では、 碧玉製の 琴柱形石製品 が 出土しています。 琴柱形石製品とは、 琴の弦を支える 琴柱に似た石製品なのですが、 用途については不明なのです。 濠の輪郭や堆積層を認めず、 古墳築造当初から 周濠を設けなかった とも… 「七観音古墳」 ・円墳 ・墳丘径32.5m ・5世紀前半 ・堺区堺区旭ヶ丘北町5丁 【世界文化遺産登録候補】 「 寺山南山古墳 」は、 履中天皇陵の外濠に接して 築かれた 長方形の方墳 。 といっても、 看板の奥にあるのは ゲートボール場 。 ただ出土品がスゴい! 墳丘テラスには埴輪列、 家形埴輪 も出土! 屋根は切妻式で、 屋根の部材や柱は 線刻により表現されたもの。 出土の埴輪や須恵器から 5世紀初め頃の築造と判明。 方墳で造り出しがあるのは 珍しいということもあり、 しっかりと整備される予定 。 「寺山南山古墳」 ・方墳 ・長辺 44.7m ・5世紀前半 ・堺市西区上野芝町 1 丁 【世界文化遺産登録候補】 こちらは、お向かいの 平成の森 にある展望台… かつては 「 七観古墳 」がありました。 土砂採取で 1952年に消滅 、 半分が七段の石積み、 残り半分が盛土になっています。 頂上部にあがると… 履中陵こと 石津ヶ浜古墳 の 後円部と西側の濠が望めます。 「終戦間際B29など 大阪周辺を爆撃する米軍機は、 巨大な幾何学模様をした 大山古墳を ターニングポイント の ランドマークとしていた。 そのことを認識していた軍部は、 迎撃のため七観古墳に 高射砲陣地構築 を試みたが、 墳丘に杭を掘っただけでに 終わってしまったようである。 七観古墳の高射砲陣地構築は このような時代背景があったことを、 その時の生き証人として 記録にとどめたい。」 大戦後の1947年、 高射砲陣地として 開けられた竪穴から 多数の鉄片を発見 した、 歯科医師であった 宮川 徏 さん 。

エリア履中vol.1 履中天皇陵

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仁徳天皇陵古墳より古く、 5世紀前半頃に造られた… 「 履中天皇陵古墳 」。 久世仁士 さんの 『 百舌鳥古墳群をあるく 』 に書かれているのが、 わかりやすい解説でしょう。 「「上石津ミサンザイ古墳」  「百舌鳥陵山古墳」  とも呼ばれますが、  ここでは石津ヶ丘古墳の  名称を使用します。  履中天皇陵に指定され、  内堤までが宮内庁の管理ですが、  履中天皇の墓であるかどうかの  確証はありません。」 こちらは 拝所 です。 仁徳陵と比べて 格段に狭いアプローチ。 百舌鳥耳原三陵の南陵 ・ 履中天皇陵として宮内庁が 管理しています。 実は天皇御陵には、 それぞれ 『 御陵印 』 という、 独自の印が用意されています。 ただ一般的にはほとんど 知られてません。 全国5ヶ所の 陵墓監区事務所 で 戴くことができますが、 「 天皇陵の御朱印 」と 思えば分かりやすいのかも… 戦前まではそれぞれの 陵墓に事務所があって、 管理されていたのですが、 今は 仁徳陵 も 履中陵 のも、 応神天皇陵 がある羽曳野市の 「 古市陵墓監区事務所 」に 置かれています。 こちら北側にある 後円部を眺められる 一段高い ビュースポット 。 「堺市文化財地図」などから、 陪塚と思われる位置に 10基の小古墳が存在、 うち 七観山古墳 の 出土資料などから、 仁徳陵よりも 古くに造られたことが わかっています。 『 日本書紀 』には、 履中天皇について 「百舌鳥耳原陵に葬った」と、 在位期間については履中6年、 反正は4年程度… いずれにしても、 巨大な権力者の墳墓、 であることに違いありません。 江戸時代の記録では、 後円部中央に大きなくぼみが あったといわれていて、 すでに盗掘 を受けていたとも… 前方部南東角から〜 後円部とのくびれ部分 が よくわかるスポットです。 松がよく映えていました。 「履中天皇陵古墳」 (石津ヶ丘古墳) ・前方後円墳 ・墳丘長約365m、  後円部径205m、高さ約27.6m、  前方部幅約235m、高さ約25.3m ・5世紀初頭 ・堺市西区石津ヶ丘 【世界文化遺産登録候補】

百舌鳥古墳群をあるく⑧ グワショウ坊古墳、旗塚古墳

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大仙公園の南寄りにあるのが、 「 グワショウ坊古墳 」、 大型陪塚の 大安寺山古墳 に 次ぐ大きさを誇っています。 位置からも場所からも 仁徳陵 とも 履中陵 とも 陪塚とは言い難く、 独立した存在ではないかと。 エリア仁徳から離れて、 「 百舌鳥古墳群をあるく⑧ 」 1970年代の公園造成時には、 すでに墳丘上部は平らに なっていたそうです。 発掘調査によると… 墳丘には掘り出した土を 天地逆さまに積み上げる 盛土工法 を採用していたこと。 盛り土の断面は 褐色と灰色のシマシマ … 灰色の土は柔らかい性質、 乾いた土との接着剤の 役割を果たして強度を 高めているそうです。 原位置を留めないものの 埴輪、須恵器、 ミニチュアの鉄製の鍬が 出土したそうです。 5世紀後半とする年代判定の 決め手となっています。 ユーモラスな名前の古墳には、 古墳築造のプロ集団の技が、 見え隠れしているのです。 「グワショウ坊古墳」 ・円墳 ・墳丘長61m ・5世紀後半 ・堺区百舌鳥夕雲町3丁 グワショウ坊古墳の西側に あるのが「 旗塚古墳 」。 公園内で緑が生い茂っていて、 お隣なのになかなか 辿り着けませんでした。 出土の円筒埴輪と 石見型盾形埴輪 から、 5世紀中頃の築造とか。 ちなみに 石見型盾形埴輪 とは… 盾を模した「 盾形埴輪 」で、 奈良県橿原市 石見遺跡 の 出土品が基準となったので、 「 石見型 」と呼んでるもの。 家形、盾形、草摺形、鶏形など 埴輪のバリエーション 多彩。 種類の多さは被葬者の位が、 相当高かったとの 想像に繋がります。 天皇陵の「陪塚」ではなく、 「 独立古墳 」に位置づける、 そんな存在がここにあります。 「旗塚古墳」 ・帆立貝形古墳 ・墳丘長57.9m、後円部径41.5m、  前方部長24.7m ・5世紀中頃 ・堺区百舌鳥夕雲町3丁 【世界文化遺産登録候補】

エリア仁徳vol.8 大仙公園と仁徳陵

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1971年に中央図書館が 宿院から移転し、 平和塔 と 礼拝堂 が建設。 市制施行90周年記念事業で 堺市博物館 が開館したのは、 1980年のことです。 遡ること江戸時代はじめ… 大仙公園の南半のあたりは、 幕府の代官・ 高西夕雲 と 堺の豪商・ 木地屋庄右衛門 によって開発された新田、 当初は 万代(もず)新田 、 のちに 夕雲開 と呼ばれました。 せきうんひらき と読みます。 古墳はそもそも、 なんのために造られたか? 巨大古墳のピーク5世紀中頃、 「 大王 」のほとんどは 大型の前方後円墳の 「 後円部 」に埋葬されました。 「 造り出し 」と言われる スペースでは、さまざまな儀式が 執り行われたと言われています。 最近になってよく言われるのが、 大阪湾から陸に近づくと、 キラキラ光る巨大な古墳 が 出現するという光景は、 朝鮮半島などからの使節団に 倭の国に足を踏み込む直前に、 「 どや築造物 」を見せつけよう とする狙いがあったんだと… 堺市立博物館の 「 百舌鳥古墳群シアター 」では、 そんなCGを無料で見せてくれます。 江戸時代の享保年間より前に 描かれたとされる「 大仙陵絵図 」、 1710以前の模写のさらに写し。 後円部の頂上には、 石室とみえる大石 が見える。 こちらは1872〜1888年に 日本に滞在した英国人、 ウィリアム・ガウランド が 撮影した写真。 生い茂る木々はやや低め… で…世界文化遺産 となろうとしている仁徳陵。 多数の研究者の論述はあるものの、 実態はよくわかっていません。 最大の理由は、 宮内庁が「陵墓」への調査を 頑なに拒んできたこと 。 実はただ1回、仁徳天皇陵が 発掘されたことがあります。 1945年11月  GHQの特殊部隊 が、 2日間に­渡って発掘…、 埋蔵品を箱に詰めて アメリカ本国に持ち帰ったとか。 『 日ユ同祖論 』※を証明する 何かしらを手にしたとも… 仁徳陵とともにGHQが 調査したのが 伊勢神宮 、 内宮に安置されていた御神体、 「 ヤタノカガミ 」を見たとも? 仁徳天皇陵古墳からは、 重要な文字が刻まれた 壺があったとか… 海を渡ったのかも含めて、 謎のままなのです。 ※『日ユ同祖論』とは? 日本人とユダヤ人(古代イスラエル人)は、 共通の先祖を持つ兄弟民族であるとい