エリア仁徳vol.7 学び舎のあったころ


百舌鳥古墳群で
仁徳陵と履中陵に
挟まれた場所「大仙公園」。
1947年に
戦災復興都市計画として
位置づけがありましたが、
事業着手1962年から
なのだったそうです。

なぜ着工が遅れたのか?
大阪府立大学の前身でもある
大阪府立農学校が1925年に、
大阪市東成区岡之町、
今の生野区勝山北あたりから
堺市大字舳松村へ移転、
広大な農事試験場になります。

舳松村とは…
現在の堺市大仙町のこと
大学キャンパスが
あったこともあり、
1967年にようやく
着工の運びとなったのです。
大阪府立大学農学部
中百舌鳥キャンパス移転の
翌年のことです…

府立大阪女子大学
大仙学舎」として、
学び舎を結んでいました。

銅亀山古墳」のそばには、
いまだにこの看板が残ります。

時計と逆周りに巡ったので、
順番は後先ですが…

樋の谷古墳
仁徳陵の三重濠の西、
濠が膨れた部分にあり、
かなり不整形な古墳とか。

濠の水底をさらって
土砂を取り除いた時の
土を盛ったものとも…
古墳かどうかは?マーク。
明治時代に宮内庁から
陪塚に指定されていますし、
以前から古墳とされていた
ことからすると、仁徳陵と
なんらかの関係のある存在で
あったことは否定できません。

「樋の谷古墳」のそばに、
磐之媛皇后が詠みうた。

「ありつつも 君をば待たむ
 うち靡く 吾が黒髪に 
 霜の置くまでに」

万葉学者 犬養孝さんの揮毫、
万葉仮名で刻まれています。

ここに居続けて
あなたを待っていよう。
長くなびくこの黒髪に
霜が置くようになるまででも。

ただ…
磐姫皇后は難波の宮に
帰ることなく、
仁徳帝を恋焦がれながら
亡くなっていかれたとか(泣)。


「居明かして 君をば待たむ
 ぬばたまの 我が黒髪に 
 霧は降るとも」

黒髪に霜が置くとは、
白髪になるまでのこと…

「秋の田の 
 穂の上(へ)に霧(き)らふ 
 朝霞 いつへの方に 
 我が恋やまむ」


「君が行き 日(け)長くなりぬ 
 山尋ね 迎え行かむ 
 待ちにか待たむ」


「かくばかり 恋ひつつあらずは 
 高山の 岩根しききて 
 死なましものを」

万葉集でも相聞の部※に
置かれているように
男女の恋愛を題材にして
詠われたのも5首。

初霜坂」はつしもさか
三十六歌仙の凡河内 躬恒の句 ※。
「心あてに 折らばや折らむ 
 初霜の おきまどはせる 
 白菊の花」


仁徳陵の濠の水が
流れ出るところでも
ありました。

「樋の谷古墳」

(仁徳天皇陵陪塚丙号)
・円墳
・墳丘長
・5世紀
・堺市堺区南丸保園・大仙町
【世界文化遺産登録候補】

※相聞の部とは?
相聞(そうもん)とは、
互いに安否を問って消息を通じ合うという意味の言葉であり。
雑歌・挽歌とともに『万葉集』の三大要素の1つ。

※凡河内 躬恒とは?
(おおしこうち の みつね)
貞観元年(859年)? - 延長3年(925年)?
平安時代前期の歌人・官人。
一説では淡路権掾 凡河内諶利の子。

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