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鹿児島群像 若き薩摩の群像〜銅像をたどる

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鹿児島中央駅前広場にある < 若き薩摩の群像 >。 1865年(慶応元年)幕末、 国禁を犯して薩摩藩が英国に 19名の留学生を派遣。 1982年3月に鹿児島市の 50万都市達成記念 として建立。 バックにあるのは、 アミュラン という観覧車。 鹿児島の夜。 桜島 も見えるとか… 2004年3月の 九州新幹線の部分開業に 合わせる形で建設… 同年9月にオープンしたのが、 アミュプラザ鹿児島 。 像は17名… 紹介板には19名が紹介。 ちなみの像に無いのは、 土佐藩士1名と長崎出身通訳。 使節団監督の 新納久脩 (にいろひさのぶ) 、 英国派遣時、33歳で最年長。 五代の陰に隠れがち なのは、 もっぱら地方産業の育成現場、 ただ共通点も多い… 中央政官界とは、 二人とも袂を分けていた。 その下に座るのが 五代友厚 。 久脩の反対側に立つのが、 初の博物館局長となった 町田久成 。 大久保利通 への建白書に、 博物館のみならず 植物園や動物園の併設まで、 書かれているのは、 久成の影響大であろう。 晩年は滋賀の 三井寺 、 僧侶として生涯を終える。 初代文部大臣の 森有礼 (右)、 現在の東大である 東京開成学校の 初代校長になった 畠山義成 。 サッポロビール創始者と 知られる 村橋久成 。 町田久成の弟の 町田清次郎 、 帰国後の消息はよく分からず。 海軍中将になった 松村淳蔵 こと市来和彦。 腕を組むのは 東郷愛之進 、 戊辰の役で戦死している。 アメリカのぶどう王となった 長沢鼎 … 実は本名は礒永彦輔、 全員が偽名を使用して出国、 彼はそのまま 長澤鼎を使い続けました。 それに応えるのは、 生野鉱山 局長となった 田中盛明 。 日本の鉱業の発展に尽くした人。 生野の町を流れる川の橋には、 「盛明橋」あり慕い続けられた。 甲突川沿いにある 円形広場にある 「 岩倉使節団 」の解説板。 そして 薩摩藩英国留学生 世界地図にある航路は5つ。 ・ジョン万次郎の  漂流・薩摩までの航路 ・ペリー来航時の  米国東インド艦隊の航路 ・薩英戦争における     英国艦

鹿児島群像 五代友厚〜銅像をたどる

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五代友厚 … 「 大阪の恩人 」と言われた人。 大阪には3つの五代友厚像がある。 一つは大証こと「 大阪取引所 」 初代会頭だった「 大阪商工会議所 」 そして「 光世証券 」さん。 1836年2月鹿児島に生まれ、 世界地図を模写して藩公に 献上したのは12才のこと。 像は 山形屋 にほど近い 泉公園 に立っておられます。 造られたのは1961年、 ここには1981年に 移設されたそうです。 像は「 鹿児島産業会館 」 を見つめています。 「鹿児島産業会館」の話を… 1967年の竣工。 林立するピロティの柱… 鉄筋コンクリートの 力強い造形から… きっと「 メタボリズム 」 ※の 影響を受けた設計者の手に よるに違いないと… ググったがあまり 情報がありませんでした。 ふたたび五代さん… 欧州留学経験があり、 明治元年に外国事務局判事として 大阪在勤となったことで、 大阪の人のなられた。 「 士魂商才 」とはその字の通り 武士の精神と商人の才能を 併せ持つという意味です。 島津斉彬から才能に 溢れた男として「 才助 」 という名を賜っていたとか。 29歳の時に薩英戦争が起こり、 長崎で英艦の捕虜となったという、 経験もあるという。 大阪の 坂岡勇次 という人が、 東京の彫刻家 坂上政克 に 委嘱され製作されたもの。 もとは国道10号線沿いの 長田陸橋に建設されたという。 ※メタボリズムとは? 高度経済成長期、 “社会の変化や人口増加に対応し成長する 建築・都市像”を提案した建築運動のこと。

鹿児島群像 丹下ウメ〜銅像をたどる

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リケジョのパイオニア 「 丹下ウメ 」さん。 山形屋1号館の南 中町通に 向かって見つめておられる。 幼いころ右目を失明するという 境遇にありながらも、 鹿児島県立師範学校 を首席卒業、 小学校教諭となられました。 28歳の時に、 日本女子大学校 の 第1回生として家政学部に入学。 その後日本女子大学校の 助手として勤務されました。 文部省中等化学教員検定試験に 女子として初めて合格。 黒田チカ、牧田らく とともに、 日本初の「 リケジョ 」に。 東北帝国大学、大学院、 そしてをアメリカに留学。 帰国後、母校の教授の任の一方で、 理化学研究所で研究を続け、 1940年 ビタミンの研究 で 東京帝国大学にて 農学博士の学位を取得。 日本と外国の両方で博士号 を 取得した丹下ウメは、 当時では男女に限らず 稀有な存在でありました。 では…なぜこの地に銅像が? 鹿児島生まれで 島津藩に 仕えた家柄 で育った、 地元には誇らしい存在。 この像は1993年1月、 鹿児島ロータリークラブ 創立40周年記念事業として建立。 楠元香代子 さんの制作、 文化勲章受章の彫刻家である 中村晋也 さんの監修です。 2017年4月に山形屋の1号館7階 「 ななテラスギャラリー 」で、 写真パネル展と講演会が 行われたそうです。 ※このブログは  (株)山形屋 さんのFacebookを参考に、  パネル展示写真等はFacebook記事より。

かごしま洋館あるき ⑩ 山形屋百貨店

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「鹿児島市内4大ビル」 山形屋百貨店 … 洋館というより百貨店建築。 見所をじっくりと… ドーム屋根の塔屋 を 持つ 本館と呼ばれる部分。 大正時代に竣工、 エレベーターも備えて、 関西以西で随一の百貨店と賞賛。 実は当初の塔屋は戦後に撤去… 上へと増築されていったもの。 今の塔屋は当初のデザインに 倣い再建されたものなのです。 メインの シースルーエレベーターで、 屋上へ… 休憩所として10時から18時 開放されています。 かつては 屋上遊園 があったのでしょうね。 鹿児島なのになぜ 山形屋 ? でもナゼ「 岩 」??? 創業は1751年(宝暦元年)のこと。 創業者は近江商人で、 今の山形県庄内地方の北前船商人。 薩摩藩主の許可を得て開業した 鹿児島城下唯一の呉服商が前身。 山形屋の始祖 初代  岩元源衛門 という人は、 江戸中期の生まれ、 紅花仲買と呉服太物行商を興し、 大阪・京都で大活躍。 薩摩藩主・島津重豪の 商人誘致政策を機に薩摩入り、 木屋町通りという場所に店を 構えたのだそうです。 岩本家の「岩」なのです。 1916(大正5年)ごろのレリーフ。 ルネッサンス式 鉄骨鉄筋コンクリートは、 まさに九州随一の百貨店を威風。 聖堂を思わせる丸形の窓ガラス。 壁面の装飾もナカナカよす。 都市景観としても、 素晴らしい姿だと思いましたよ。 ちなみに1988年に再現されたもの。 ちなみに当初の設計は鹿児島出身、 東京の 曽禰中條建築事務所 で 修業した建築家 斉藤久季 という人。 1963年に新旧両本館が増築。 エレベーター塔屋、 デザインが入り混じって、 よくいえば“ 百花繚乱 ”。 全体のバランスというより、 モダンを追い続けた偉容 かと。 最上階の窓の内側に見える アーチ状の窓枠とか、 増築の面白さが伝わります。 通り向かいに他人と 思えない姿の像が佇む。 雷さまなのかも知れない、 降り注ぐ雨でギッタンばっこん。 お昼時…7階にある 山形屋