文楽ゆかりの地をたどる② 近松を継ぐ竹田出雲


《初代竹田出雲肖像画》
国文学名家肖像集』より
 国立国会図書館

人形浄瑠璃の歴史の中で
三人をあげるとなると、
太夫は竹本義太夫
作者の近松門左衛門
そして興行者の竹田出雲だと…

《竹田近江のからくり芝居》
 『摂津名所図会』
より

初代 竹田出雲は阿波国の生まれ、
ぜんまい仕掛けや水を使い
人形などを動かす
"竹田からくり"の創始者
竹田近江が父にあたります。
摂津名所図会』には、
からくり芝居を見物する
オランダ人の様子もみえます。
「竹田のからくりを見ないと
 大坂へ来た甲斐がない」

ともいわれたのだそうです。

《天王寺番匠尊像》
『大からくり絵尽』
より

からくり"天王寺番匠尊像"は、
四天王寺の番匠の道具箱から
大工道具が出てきて、
最後は聖徳太子木像に変身
観客をあっと言わせたのだとか。

曲瀑浪花男
竹田新からくり』より 

父・近江は和時計職人だったとか…
子供の砂遊びから発想を得て
砂時計を作ったとも、
朝廷にからくり人形を献上、
"近江掾"の名を許されます。

出雲にとって竹田からくり
"人形浄瑠璃"として、
演劇性・娯楽性を高め、
座本=興業者として小屋の
経営感覚を磨いた原点でした。

子供新狂言
『竹田大からくり』

竹本座の経営に加わったのは、
わずか15歳であった
そうですが、
当時は耳で聴く浄瑠璃から、
目でみる人形づかいに
向かいつつある時期でした。
その時流をうまくとらえ、
今日の人形つかいの形が
つくられたようです。

『用明天皇職人鑑』表紙見返し絵

"竹本座"は経営に疲れて引退した
竹本義太夫を舞台復帰させ、
座本を引き継いたもので、
近松門左衛門を座付作者に、
1705年(宝永2)に近松作
用明天皇職人鑑』を上演。
近松は初代出雲の意向を汲み、
スペクタクルな筋書きに
仕上げたのだそうです。

大阪夕陽丘学園高校近く、
青蓮寺の竹田出雲墓所。
生國魂神社には"生玉十坊"と
呼ばれていた神宮寺があり、
明治初頭の神仏分離により、
十坊の遍照院と医王院が合わされ、
真言宗 青蓮寺として
竹田家一族の墓とともに
生國社境内の蓮池近辺から
ここに遷されたそうです。

聖徳太子が"志宜野"に建立の
"法案寺"にあると伝わります…
"志宜野"のとは鴫野のことです。
豊臣秀吉公の大坂城築城に際し、
生玉神社の地に移り習合…
法案寺は中央区に遷っています。

竹田家よりは多くの
寄進があったのですが、
大阪大空襲で多くが焼失、
西国三十三所観音像も
その時失わたそうです。

《絹本著色三宝荒神画像》
 青蓮寺蔵

唯一残る竹田家ゆかりの
"三宝荒神画像"は、
住職が修復にも熱心に取り組み、
2014年に一般公開されたもの。

『忠臣蔵岡目評判』より竹田出雲
 十返舎一九撰 早稲田大学図書館

二代目出雲を継いだ清定は、
親方(おやかた)出雲」とも呼ばれ、
『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』
など人気の高い名作を遺しました。
二代目出雲と近江は、
竹田家一族の墓所に眠っています。

初代出雲も座本業の傍ら近松に師事、
浄瑠璃作品の執筆に励んでします。
近松との合作で『大塔宮曦鎧』、

続いて単独で
諸葛孔明鼎軍談』を発表、
「ぷつぷつと智恵の吹出雲」
との評判を得たそうです。

諸葛孔明鼎軍談』絵尽くしの序、
近松は一文を寄せています。
「粤(ここ)に至りて。浄瑠璃作者。
 竹田出雲と題せんに
 誰か非なりと云ん。
 木に竹は継れずといえども。
 近松が流義ハ。竹田を根継とし。
 松竹の千年万世も。常盤かきハに
 此道の栄(さかえし)行末を祝(ことぶき)。
 序を述るものしかなり」
享保9年11月12日永眠した近松が、
浄瑠璃作者 出雲に与えた、
最初で最後の餞の言葉となりました。
今では文楽ではお馴染みの
太夫を御簾の外に出す"出語り"は、
出雲が繰り出す新機軸だったそうで、
人形浄瑠璃の歴史を
塗り変えるものだったのです。

※このブログは安田富貴子さんの
 『古浄瑠璃: 太夫の受領とその時代』
  1998年刊 を参考にしました。

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