太閤秀吉を辿る vol.13 浮世絵にみる『絵本太閤記』


《東都高名会席尽 真柴久吉》
 歌川豊国


絵入太閤記』の発刊は、
秀吉百回忌にあたる1698年
元禄11年のことでした。
残酷な場面が忌諱に触れる
というのが理由で発禁処分に。
浄瑠璃の「灰駕色相方」では
真柴久吉という名…
"太閤記"に関わる筆禍は、
享保寛政の改革で、
浮世絵に歴史的出来事を
示すことが禁止されたのです。

《教訓親の目鏡 理口者》
 喜多川歌麿
 1802年

寝転びながら読む美人画、
手にするのは秀吉二百回忌
発刊された『絵本太閤記』。
寛政11年から文化元年の
1799-1804年の約7年間、
秀吉はキャラクターとして
人気を博していたのです。

《七本鎗高名之図
  涌坂幸内》

 歌川豊国 1801-1804年

描かれた脇坂甚内安春は、
豊臣方武将であるとともに、
寺社奉行 脇坂安菫の先祖
絵の出版は外様でありながら、
譜代大名化しつつあった
脇坂家に不都合だったのやも…
偶然とも思えますが、
元歌舞伎役者の僧 日道と
大奥婦人たちとの乱交が
スキャンダル
となった
"延命院事件"と”涌坂幸内"…
過去を探られるのは、
気が気でなかったのでしょう。※1

《朝鮮美人の歌舞を見る加藤清正》
 喜多川歌麿


朝鮮出兵では一流の武人として
知られていた清正を、
賛美尊敬の英雄として描かず、
自分の喜びを追求することだけに
興味のある人物のように…

《見立唐人行列》7枚組みの一部
 喜多川歌麿 1797~98年ごろ

朝鮮通信使を当世女性風俗に
やつした作品も歌麿は制作…
朝鮮美人の歌舞を見る加藤清正》には、
<極>印があり、下絵の段階では
制作が許されていたのです。

その後…官能的で享楽的な雰囲気
清正を揶揄しているとされたのです。

《真柴久吉》喜多川歌麿
 1803-04年 大英博物館蔵

摂津奇観』に記された
秀吉が少年・石田三成の手を
取るシーンですが、
『絵本太閤記』などの秀吉像とは、
反対軸にある存在となっています。

最後に《太閤五妻洛東遊観之図》、
実は『絵本太閤記』は"醍醐の花見"
にてその幕を閉じています。
歌麿たちが咎めを受ける1ヶ月前、
徳川実紀』には文化元年4月、
「この後は左の如く心得べし。
 壱枚絵草双紙の類、
 天正以来の武者に姓氏を
 あらはし画くはいふまでもなし。
 紋所及び合印姓氏等紛らわしく
 ゑがくべからず。
…」

「太閤秀吉公」「淀殿」などと
堂々と書きいられる公然とした
禁令違反そのものです。
花見に贅を尽くすというより、
吉原の宴席を思わせます。

三枚目には「石田三成」も…
太閤の五人の妻は遊女、
三成は若衆のようでもあります。

歌麿らの筆禍事件以降は、
歴史テーマの浮世絵は描かれず、
刊行当初は問題とならなかった
『絵本太閤記』も版木没収

《源氏十二ヶ月之内弥生》
 歌川国貞
 1855年

これには実名はありません…
源氏の世?まで遡っていますから。
その背景には当時の将軍である
徳川家斉と豊臣秀吉とを重ねた?
分家筋の家斉は絶対的地位を
振る舞い享楽的な要素が強く、
贅沢な消費活動など、
物言わぬ浮世絵が寓意を持つ
事実でも事実でなくとも、
広く民衆の常識として
理解されてしまうことへの恐れ

今の政治家にも通ずる、
そんな思考なのかも知れませんね。

※このブログはペンシルバニア大学
 ジュリー・ネルソン・デイヴィスさんの
 「歌麿と『絵本太閤記』」を参考にしました。
 第10回国際浮世絵大会 特別講演録 

※1『週刊朝日百科
 世界の文学84 近世の出版文化』
  佐藤悟 2001年

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