甲子園メモリアルボックス ラッキーゾーン

甲子園歴史館 メモリアムボックス探訪
今回はいまなき「ラッキーゾーン」























1947年から1991年の44年の間、
甲子園球場には
「ラッキーゾーン」が存在していました。
撤去されて広くなった1992年といえば、
亀山新庄フィーバーのシーズンで
ヤクルトとのデットヒートが
繰り広げられた年でもありました。

思えば就職してお金に少し余裕が
出てきた頃でしたので、
「Xデー」を目指して初めて野球観戦で
関東に行ったのはこの1992年という年。

「ラッキーゾーン」には投球ブルペンがあり、
ライトスタンドからは声を掛けると返ってくる
距離にありました。

1985年のシーズンのブルペン担当のコーチは、
高橋重行 (たかはし・しげゆき)さんでした。
高橋重行 さんは1962年に千葉商から
現 在の横浜の「大洋ホエールズ」に入団、
3年目に17勝をあげ新人王に輝いています。
通算121勝135敗8セーブ。













この高橋元コーチですが、
去る3月1日に64歳で生涯を遂げられています。
いつも「ラッキーゾーン」のブルペンで
ブルペンをならすトンボを片手に
スタンドと
会話をされていたのが
昨日のように思い出されます。



ところで「ラッキーゾーン」の設置のきっかけは、
日米野球で来日したベーブルース
「こんなに球場が広くては
 ホームランが打てない」

と発言したから・・・・

甲子園に「ラッキーゾーン」が設置されたのは、
1947年5月のこと最初は木製だったそうで、
1988年のシーズンから最大2.5メートル
スタンド側に移設され、
1992年3月に取り外されました。

1992年のシーズンには「ラッキーゾーン」
あった名残が外野の芝に刻まれていたので、
「だから外すなって言うたやろ」と叫ぶ人続出。
虎次郎の今でもそんなレトロな一言が出てしまいます。

















実際最大では8メートルもグラウンドが広がったので、
1991年の1試合平均が1.8本で翌年は1.2本。
実に50%減という「効果」をもたらしてしまいました。

「ラッキーゾーン」間際のプレイが見せ場の一つでした。
往年の外野手は「ラッキーゾーン」によじのぼり、
ホームランをまさに「もぎ取る」
プレイを魅せてくれていました。
フェンスの網にスパイクをどう引っ掛けるかが勝負。


歴史館の写真は
佐野仙好(さの・のりよし)さんのものです。
1988年の5月28日には、
金森栄治 選手がフェンスに登ってキャッチを試みるが、
そのまま「ラッキーゾーン」へ転落というのがありました。
実況アナに「入った~入った~金森も入った~」と
言われてしまいました。



「ラーキーゾーン」ぞいの好プレイといえば、
「阪急西宮スタジアム」での、

阪急の山森 雅文 選手のが有名です。
西宮スタジアムのは1960年代頃に設置されたもの。
1967年にはダリル・スペンサー選手の要望で、
さらに3メートル前方に移設されらたそうです。















歴史館には「まんが と甲子園」という
コーナーがありました。
床にはいわゆる野球マンガ字が躍っていました。



















「ラーキーゾーン」
が一番登場したのは、
高校野球マンガの至宝
「ドカベン」です。







山田太郎
ことドカベン
高校2年の春の甲子園準々決勝。
宿敵「土佐丸高校」と対決したとき、
殿間が放った渾身の一打が
犬神の懸命に差し出したグラブに収まるものの、
体が「ラーキーゾーン」へ落ちそうになります。
つま先だけで体を支える犬神でしたが、
最後は体もろとも「ラーキーゾーン」
落ちてしまうシーン。実に印象的でした。

そういえば「弁慶高校」に敗れる試合では、
6万人の観客があふれ「ラーキーゾーン」にも
入れるというシーンがありました。

いや〜また読みたくなってきた。。。




「ぬおお」
とは・・
「球道くん」
投げると発する音です。

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