甲子園メモリアルボックス 弾痕が残る鉄扉
甲子園歴史館
メモリアムボックス探訪
最終回は甲子園の
生き証人と呼ばれる
「弾痕が残る鉄扉」です。
1945年5月10日。
この日は阪神地域にも空襲があり、
球場の西側の窓を突き破って、
スタンド内部に焼夷弾が入って
火災が発生し損傷に
いたったそうです。
グランドにも多くの焼夷弾が
突き刺さっていたといいます。
あの「野球塔」に損傷をもたらしたのもの、
この日の空襲によるものであったと言われています。
甲子園歴史館にはこないだ紹介した
メモリアムボックス探訪
最終回は甲子園の
生き証人と呼ばれる
「弾痕が残る鉄扉」です。
1945年5月10日。
この日は阪神地域にも空襲があり、
球場の西側の窓を突き破って、
スタンド内部に焼夷弾が入って
火災が発生し損傷に
いたったそうです。
グランドにも多くの焼夷弾が
突き刺さっていたといいます。
あの「野球塔」に損傷をもたらしたのもの、
この日の空襲によるものであったと言われています。
甲子園歴史館にはこないだ紹介した
「野球塔」のミニチュアともに
呉港中の優勝レリーフが飾られていました。
呉港中の優勝レリーフが飾られていました。
過去のブログ → 甲 子園 を囲む野球史跡たち
歴史館に残る「弾痕が残る鉄扉」は、
甲子園を襲った二度目の空襲のときのもので、
時は1945年の8月6日。
あの広島の原爆投下と同じ日に、
グラウンドには焼夷弾が
5000発も突き刺さったのだそうです。
焼夷弾の投下とともに行われたのが、
B29による「機銃掃射」。
周辺住宅とともにこの攻撃にも見舞われます。
球場正面にあった役員・関係者出入り口鉄扉、
歴史館に残る「弾痕が残る鉄扉」は、
甲子園を襲った二度目の空襲のときのもので、
時は1945年の8月6日。
あの広島の原爆投下と同じ日に、
グラウンドには焼夷弾が
5000発も突き刺さったのだそうです。
焼夷弾の投下とともに行われたのが、
B29による「機銃掃射」。
周辺住宅とともにこの攻撃にも見舞われます。
球場正面にあった役員・関係者出入り口鉄扉、