太子霊場めぐりvol.6 大安寺鎮守 八幡神社


大安寺の南側すぐの木立のなか、
大安寺の鎮守神であった
八幡神社が座していました。

標石には元石清水八幡宮とあり、
大安寺の僧侶である行教が
平安期初めの大同2年(807)、
唐へと渡った帰路に
大分の宇佐八幡宮から遷座
大安寺東室の第七院にお祀り、
大安寺の鎮守としたことに
ルーツを持つとされます。

「大和国添上郡大安寺伽藍絵図」
にも大安寺東塔を擁する境内地、
八幡宮とみえます。
貞観元年(859)神託によって、
京都 八幡市 石清水八幡宮に遷座、
跡地に社が建立され創建の由来に。

御祭神は、仲哀、応神天皇、神功皇后
宇佐神宮、石清水八幡宮ともに、
仲哀天皇でなく比咩大神
宇佐神宮社伝では、
アマテラスとスサノヲの
ウケヒによって顕れ、
スサノヲの剣を物実とした
三柱の比売大神”で、
筑紫の宇佐島に天降ったと…
宇佐の地主神として
祀られていたとされています。
地主神だから分霊しなかったの?
しかし、
石清水八幡宮には比咩大神

奈良市指定文化財の"八幡神社中門"。

木鼻や蟇股の形状などから
室町期16世紀のもので、
数度の改修を受けながらも、
主要な部材がよく残っています。

翼廊は大正期に建て替えられたもの、
裄や梁などに古材が再用されています。
秋祭りの際には、
神饌の準備に使われているそうです。

かつては「大安寺祭」という祭事が
盛大に実施されていたとも…
明治期の大安寺の衰退もあって、
鎮守神としての役割からは
外れることになったそうです。

いまは氏神様として分厚い信仰を
集める存在となっているそうです。
祭祀の執行を巡っては、
現在も大安寺集落には
「観音堂衆左座」と「座衆右座」と
呼ばれる宮座が残るなど、
祭祀を執り行う上での
特権を有されていて、
大安寺の鎮守神であった歴史を
いまに伝えています。

本殿の周辺には小さな「」の
置き物が多く奉納されていました。
この八幡宮をめぐっては
「安産」の神さまとしても
信仰を集めて来た歴史があったとか。

狛犬と鳩の表情が秀逸でした。
少し離れた東九条町にも、
分霊をお祀りする八幡神社が
祀られているそうで、
信仰が篤く繋がったことが
よく分かります。

本殿をぐるりと境内社
武内神社(武内宿祢命)

春日神社(天児屋根命・大物主命)

宮玉神社(宮玉大神)

金刀比羅神社(金刀比羅大神)

左 菅原神社(菅原道真公)
右 厳島神社(市杵島姫命)

稲荷神社

命婦神社(豊玉姫命・玉依姫命)
命婦(みょうぶ)」とは
稲荷の狐の別名で、
年老いた女狐の意なのですが、
子育て、縁結びの神として、
祀られていました。

山城石清水八幡宮の創建については、
改めて行教尚が宇佐神宮へ出向き、
男山に八幡大神を招来したという説

大安寺より分神したという二説
語り継がれているのです。
ただ…男山八幡宮の御由緒には、
元石清水を認めていません…
"石清水"の名前は以前から
男山にあったというのが主張、

その主張と分けるために、
"元石清水八幡宮"とも。

御祭神の仲哀天皇は応神天皇の父、
その妻は神功皇后で、
日本武尊の第二子であり、
武神としての印象が強いのです。
『日本書紀』などのいわゆる正史では、
応神天皇と八幡神の直接的な
結びつきの記述がみられないのです。

奈良〜平安時代の口伝によって
加えられた可能性とも…

最後に男山衆の主張を…
1113年(天永4)平安時代後期、
鳥羽天皇の時代のこと、
興福寺大衆が
「男山八幡宮は奈良の
 大安寺から遷座したものだから、
 共に参加するようにと」
男山衆は呼びかけたところ、
「男山の八幡大神は宇佐神宮から
 直接お招きしたもので、
 大安寺とは関係ない」と
「本社」を名乗って譲らなかったとか。

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