ブレーブスのあった頃④ 放棄試合のこと


西宮球場の開場から9年目、
1946年9月27日に
史上初のことが起こりました…
それは「放棄試合」。
正確には没収試合で、
公認野球規則7.03 ※には
フォーフィッテッドゲームとして、
規定されています。

セネタース
ゴールドスター
12回戦は午後1時開始予定。
セネタースの宿舎は宝塚にあり、
早朝から大雨に見舞われました。
試合は1時開始予定、
セネターズの選手が来ない。
ゴールドスターの打撃練習が
11時30分頃から始まったが、
やはりセネターズの選手がいない。

  セネタースの大下選手

開始を30分遅らせるも、
結局9人揃うことはなく、
午後1時45分に主審が
放棄試合を宣告。
規定により9対0で
ゴールドスターが勝利。

宿舎のまわりはずっと
雨が降り続いていたので、
選手は中止と思い込み
遊びに行ってしまったとか…
セネタースには罰金と
弁済金15,928円の支払いが
命じられたそうです。


阪急ブレーブスといえば、
思い出すシーンがコレ。
場所は後楽園球場ですが、
阪急の上田利治監督が
指差しているのはレフトポール

1978年のヤクルトとの
日本シリーズ第6戦

1時間19分の抗議。
上田利治監督にとってそれは
"勝負師の一瞬"だったと
振りかえる。

とにかく阪急は強かった、
1985年まで日本シリーズに
進めなかったタイガースを
応援していたボクにとって、
その長い抗議の中継を見ながら、
「ここまで長引かせたら、
 日本シリーズなのに
 放棄するのか…スゴイな」

思っていました。

西宮球場というのは、
オシャレな球場だったかと、
1980年代半ば、三塁側の
一階内野席にはエレクトーンの
演奏ブースがあったそうです。

イニングの合間に、
リクエストに応じていたとか。
そんなオシャレな球場で、
放棄試合とは因果な関係にある。

1971年7月13日の放棄試合、
それは西宮球場で起きました。
プロ野球史上6度目、
ロッテvs阪急の首位攻防戦だった。
責任審判の田川豊一塁塁審が
ロッテの濃人監督に言った。
「このまま行けば
 ロッテの放棄試合になる。
 お客さんにも申し訳ないし、
 ロッテは制裁金を
 支払わなければならなくなる。
 提訴を条件に試合再開をしてくれ」
その後のロッテ…制裁金は200万円。
入場券の売り上げなどなど、
1000万円は超える額となった。
当時の総理大臣の年収が
ほぼ1300万円の時代、
放棄試合はこれ以来、
およそ50年間ありません。


時代が巡って昨年度、
最初の放棄試合をした
東京セネタース
放棄試合を最後にされた
阪急ブレーブス、
奇妙な対決が西武ドームで…
時代は巡るものである。

阪急上田利治監督 1時間19分の抗議を振り返る

※ 公認野球規則7.03
「一方のチームが次のことを
 行なった場合には、
 フォーフィッテッドゲームとして
 相手チームに勝ちが与えられる。
(1)球審が試合開始時刻にプレイを
 宣告してから、5分を経過しても
 なお競技場に出ないか、
 あるいは競技場に出ても試合を
 行なうことを拒否した場合。
 ただし、遅延が不可避であると
 球審が認めた場合は、
 この限りではない。
(2)試合を長引かせ、
 または短くするために、
 明らかに策を用いた場合。
(3)球審が一時停止または
 試合の打ち切りを宣告しない
 にもかかわらず、
 試合の続行を拒否した場合。
(4)一時停止された試合を
 再開するために、球審がプレイを
 宣告してから、1分以内に競技を
 再開しなかった場合。
(5)審判員が警告を発した
 にもかかわらず、故意に、また
 執拗に反則行為を繰り返した場合。
(6)審判員の命令で試合から除かれた
 プレーヤーを、適宜な時間内に、
 退場させなかった場合。
「以下略」

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