ブレーブスのあった頃⑤ ラッキーゾーン


西宮球場が特徴的だったのは、
阪神甲子園球場と同様に
ラッキーゾーンの存在。

時代は19694年11月に遡る
デイリースポーツに載った記事
“阪急ブ レーブスは
 なぜ最下位か?”。

「西宮球場が
 余りにも広すぎるからだ。
 もし南海ホークスの
 難波球場だったら、
 選手バルボンが
 大レフトフライを満塁で打った。
 また4番 中田が満塁で、
 ホームラン性の大フライを放った…」
当時の戸倉監督のコメント。

実は西宮球場は"西宮競輪場"という
別の顔を持っていました・
"東の川崎、西の西宮"
呼ばれるほど売上は良かったそうで、
全盛期はブレーブス公式戦より
入場者が多かったのです。

外野いっぱいにバンクを広げるため、
118枚のアスファルトの
つなぎ合わせやぐらを立て、
組み立てバンクを作り上げました。
継ぎ目ができるので走るたびに
ガタガタと音がするので、
走りにくいという選手も
多かったのですが、
“ミスター競輪”と呼ばれた
中野浩一さんは得意バンクの
一つとしていたそうです。

バンクの脱着にはそれぞれ
半日もかかっていて、
その費用は約700万円とも。
それでも競輪を開催したのは、
儲かったから…
野球の試合の時には
バンクは解体され、
球場の外周に無造作に
置かれていたそうです。

西宮球場のラッキーゾーン、
一番有名なシーンはコレ。
時は1981年9月16日
ロッテ戦の1回表1アウト、
弘田澄男の左翼へ大飛球。

フェンスの上に左足をかけ、
グラブを伸ばして“軽業美技”、
プロ入り3年目 山森雅文さんが
見事キャッチの連続写真がコレ…
翌日には弘田からこんな恨み節
「オレは(本塁打を)数本しか
 打たないのに、捕りやがって」


ラッキーゾーンの先輩格は、
1947年5月26日設置の
阪神甲子園球場。

かつての甲子園歴史館に展示、
選手が落下しているシーンが
パネルで紹介されていました。

明訓高校と土佐丸高校の一戦、
犬神了が耐えきれず
落ちるシーンが描かれた。
殿馬の逆転ホームランとなり、
明訓がサヨナラ勝ち。
だが…ルール上は、
キャッチ時点で打者はアウト。

キン肉マンだと、
ここにリングを設置したとか。

1991年のオフになって甲子園の
ラッキーゾーンは撤去されました。

撤去されてからホームラン数は
激変しています…
得点力不足のタイガース(TдT)、
その復活がスポーツ紙で
たびたび賑わせています。

西宮球場のラッキーゾーンも、
実は甲子園とほぼ同時期に
撤去されていたのだとか。
野球場としての役目を
終えつつあったのに、
わざわざ撤去したのはナゼ??


 【大東金属株式会社のHPより】
甲子園球場のは固定式だが、
西宮球場のラッキーゾーンは、
簡易で脱着式だったのです。

阪急時代にあった
ラッキーゾーンのブルペン、
ベンチの屋根も簡易式。
いつでも取り除ける仕様なので、
撤去には躊躇なかったのですね。

ブルペンといえばリリーフカー、
のぞき込んでいるのは、
アンダースローの山田久志投手。
阪急だけに"半球"だった…
お後がよろしいようで。

※このブログは大東金属株式会社 
 創業者の想い 西宮球場の昔話
   参考にしました。

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