ブレーブスのあった頃⑦ 黄昏のスタジアム


黄昏のスタジアム
阪急西宮スタジアムは、
こう呼ばれていました。
秋の日本シリーズになると、
強烈な西日が射しました。
1970年代の日本シリーズは
デーゲームとして開催、
午後1時開始の試合が
夕方にさしかかると、
一塁側から射した西日が
照明塔に当たって、
その影はグラウンドに
伸びていました。

オレンジ色のスコアボード
アンツーカー、スタンド内の出入り口、
外野フェンスの広告もオレンジで
書かれていました。

人工芝化、ラッキーゾーン設置前の
球場模型をみると…
2階席のラインと内外野にある
屋根にはオレンジが見て取れます。

球場開設40周年の記念きっぷ、
競輪の楕円形の走路に沿った
レフトの定位置からセンターに
かけての芝生の損傷は激しく、
土が剥き出し。

イレギュラーも多く、
12年連続ダイヤモンドクラブ賞の
福本豊さんをもってしても、
「守りづらい」と…

1978年の人工芝化で競輪の
走路も変更された。
外野フェンス沿いの
ウォーニングゾーンに合わせて、
バンクが設置されたのに伴い、
外野席の前方が削られたため、
ブルペンとして機能した
ラッキーゾーンとなったのです。

天然芝時代は水はけも良くなく、
砂州につくられた水はけのよい
甲子園にくらべて、
まさに雲泥の差があったとか…

グリーンスタジアム神戸で
復刻された1塁側ベンチ横に
設置されていた選手ボード
ベンチ入りのメンバー全員の
名前が赤のボードに白抜きに、
出場するとひっくり返されて、
白に変わるというもの。

いまではベンチ入りのメンバーが試合前に
スコアボードのビジョンで紹介されますが、
当時としては画期的な試みでした。

ファンは控えの選手に思いを
巡らせながらゲーム展開を楽しむ。
そんな設えは"玄人のファン" が
ブレーブスには多かったという
一面を表しているやも知れません。

10.19 川崎球場
近鉄バファローズがロッテとの
ダブルヘッダーで優勝を逃した日。
近鉄が優勝をかけて戦っている時、
阪急の身売りが発表されたのです。

上田利治監督の挨拶でしめます。
「球団譲渡のお話を伺ったときに、
 「夢であれ」「嘘であれ」と
 思い続けて来ましたが、
 とうとう実現してしまいました。

 しかしながら、
 良いたくさんの思い出を
 作っていただいた
 この西宮スタジアム、
 また、今日の試合をもって
 引退する山田とか、福本とか、
 幾多の名選手を生み、
 育ててくれましたこの西宮球場は、
 新しいチームの本拠地として
 存続いたします。

 そしてまた、この球場で培われ、
 皆さまがたに育ていただきました、
 阪急魂、勇者の魂は、
 ユニフォームこそ変われ、
 この立ち並ぶ選手たちの胸の中に、
 延々と燃え続けるものと
 確信しております。」


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