四天王寺七宮めぐり 弐 久保神社


南向きに立つ白亜の大鳥居。
かつては"大きな御殿のような神社"、
巨大な鳥居がその面影を伝えます。
戦災と区画整備で境内が
かなり削られたそうです。

この辺りは窪地だったので
久保神社という名が出たとか。

石灯籠にも地名が刻まれ、
旧久保村の産土神となったことを、
今に伝えています。

ご祭神は天照大御神、須佐之男尊、
伊邪那岐尊、伊邪那美尊、
宇賀御霊神の5柱とされます。

1938年 改築十周年記念で
奉納された注連石には、
皇徳溢八紘 神威洽宇内

社地は近代になり大きく削られた、
とされつつも伊勢神宮遥拝所
かなりの神域を占めていました。
古代の伊勢神宮では“私幣禁断”、
天皇以外からの奉幣を禁止。
今でも伊勢神宮には、
"賽銭箱"なるものは、
いまなお置かれていません。
久保神社の祭神が創建当初から、
天照皇大神であったかかどうか…


遥拝所を囲むように立つのは、
「力石」と呼ばれるもの。
「さし石 小西連 大都藤治郎」、
「大都石」…

奥から「萬歳」「龍虎」「勢遊」、
遥拝所の建立は大正5年(1916)
ことだとその刻印が伝えます。
発起人には阿倍野筋一丁目、
大都菊松、大都藤治郎らの名。

玉垣には当時の大阪力持講
関係者の名とともに…
地元の高校理事長のものも。

鍛錬や娯楽として、
江戸時代から明治時代まで
力石を用いた力試しが
盛んに行われていたようです。
ご祭神の須佐之男尊は、
荒ぶる神とされていて…

四天王寺七宮には、
すでに合祀されて社地が
失われいる宮もありますが、
四天王寺建立の祈願、
その守護のための宮ならば、
聖徳太子が伊勢神宮の祭神に
その役割を求めたどうか…
疑問符を抱かざるを得ません。

その謎を解くヒントは、
摂社となって祀られている
「願成就宮」にあるように思います。
聖徳太子の深く信仰あらせ給い
 御願の成就を遂げ給うにより
 願成就宮と称へ今に庶民の信仰
 絶えず霊験あらたなりと…
と案内板にはこうありました。

摂社にしてはその造りに、
格の違いを感じさせ、
扉絵も異彩を放っていました。

場所を移して四天王寺
太子堂の裏手にある「守屋祠」

東端の絵堂の横から守屋祠が
鎮座されているのを知る人は、
ほとんどいないと思います。
というのも、毎月22日のみしか
絵堂は開帳されていないので、
特に案内板もないので、
その存在を多くに知られる
ところではないからです。

聖徳太子の誓いによって物部氏の
土地を没収し物部氏の部民を使役し、
四天王寺を建立したと伝わります。
ただ太子は推古元年(593年)、
戦いに負けた物部守屋の御霊
四天王寺の境内地に祀られ、
さらに守屋の家来達を
寺の公人として使役されたと…
これを守屋王の霊がお許しに、
さらにお助けになったことで、
無事四天王寺が出来た、
願いが成就できたとされます。

太子堂のちょうど裏手に
祀られています。

摂津名所図会』には、
「太子堂の後ろにあり。今参詣の者、
 守屋の名をにくむや、
 礫を投げて祠を破壊す。
 寺僧これを傷んで
 熊野権現と表をうつ。
」とあります。

久保神社に戻ります。
主祭神はかつては、
天照大御神、熊野大神、稲荷大神
とされていました。
熊野三山における速素盞男尊、
伊邪那岐尊、伊邪那美尊として、
いまの御祭神は、
天照大御神と宇賀御霊神に
加えて五柱とされています。

摂津名所図会』の記述にある
四天王寺の熊野権現と称したこと、
久保神社の「願成就宮」もそれに
倣ったのやも知れません。

宇賀御霊神は稲荷社…
境内社は「白玉稲荷大明神」。

久保神社には古い信仰の
カタチが残されています。
大岩小岩大明神
伏見稲荷大社には同名神社があり、
いわゆる夫婦岩のようなもの。
男神・女神の存在は、
この地が古来から信仰の場で
あったことを伝える証でもあります。

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