南海ホークスをたずねてvol.2 ノムさんを探せ


南海ホークスメモリアルギャラリー
なんばパークスの最上階9階にある。
もともとは7階に開設されていたが、
まさに天空に移されていた…
いや追いやられていたというべきか。

パークスガーデンには、
はらっぱ広場」なるものがあり、
都会のオアシスとしての機能が
あるが、本当に贅沢なつくり。

かつての大阪球場の正面ゲート、
繁華街に立つ球場で周辺は
特に土日は特に賑わっていました。
ライト側スタンドの裏手に
場外馬券場があったから。
オールドファンで大阪では有名な
「手打ち草部うどん のらや」の
取締役専務の桑名謙二さん、
「いまここに球場があったとして、
 入場券は一人5万円くらい
 払わないと成り立ちません」


時は移りて高級マンションも立つ、
その一角を占める鷹戦士の
ガラス張りのギャラリー…
なかなかの贅沢なセレブ扱いは、
本質的には変わっていないなぁ〜。

出迎える緑の Hawksのユニは、
南海ホークス最後の監督である
背番号71の杉浦忠さんのもの。

1959年の読売巨人軍との
日本シリーズで4連投4連勝
ホークス史上初の日本一をも
たらした伝説の投手でもあるのです。

かつての展示よりも規模は
少なくなったよう…

門田博光の2000本安打、
そして山本和範定岡智秋

サイン入りの絵皿は1959年、
日本シリーズ優勝記念のもの、
鶴岡一人監督を筆頭に…

南海ホークスの歴史が綴られる。

だが…野村克也さんが監督
務めた1970〜1977の期間、
そのスタートにはその名が
刻まれていないのです。
1973年 パリーグ2シーズン制導入、
前期優勝。プレーオフで阪急を破り、
リーグ優勝するも巨人に惨敗
とある…リーグ優勝監督が
野村だということは伝えていない。

南海は阪急に後期12敗1分、
まるで歯が立たなかった相手。
2勝2敗で迎えたプレーオフ第5戦、
「勝って当たり前」
阪急のほうがコチコチになり、
南海が日本シリーズ進出!!

だが1964年以来の日本一達成を
果たせなかったのです。
大阪球場の第1戦をものにした、
夜から降った雨は翌朝まで…
グラウンドは水浸しのはず。

ところが野村が球場入りすると、
球団の営業部が陣頭指揮を執り、
二軍の選手を総動員して水かき。
「やめてくれ!」の野村の叫び、
届かなかったからか。
南海はそこから4連敗で、
巨人がV9を遂げることになった。

野村が三冠王に輝いた1965年の年表、
「シーズン後、鶴岡(一人)
 監督辞意表明も蔭山(和夫)
 新監督急逝で復帰」とあるだけだ。
プレイングマネージャーに就任1970年、
D.ブレイザーヘッドコーチを招聘、
 作戦面を指揮」とあるだけ。
1959年に巨人を破って日本一になった
動画が流れているものの、
野村の姿は確認できないである。
まるで失脚した国の幹部たちが、
銅像をなぎ倒された時代を彷彿…
徹底ぶりは「異常」と言う他ない。


1977年限りで野村は
南海監督を解任される。
理由はのちの夫人となった
沙知代さんとの女性問題とも。
1970年のシリーズ第2戦前、
営業担当者は野村への反論、
日曜の巨人戦を中止になんて
 できません
。それにもう、
 和歌山からの団体バスが
 出てしまいました」と。

打者のパネルにも野手にも、
野村の姿は一切現れない。
「ホークスは好きだけど、
 南海は嫌い」
と語っていた
野村克也さんが2020年2月11日、
84歳で生涯を閉じられた。

11月4日になってこんな記事、
「おかえり! ノムさんプロジェクト」
費用をクラウドファンディングで
募って野村克也さん展示。
南海OBで発起人の江本孟紀氏、
「スーパースターだった
 野村さんが一番輝いていたのが
 伝統ある南海ホークス。
 南海の記念館に、野村さんの
『の』の字もないのはおかしい。
 大阪難波に帰らせてあげたい
」と。

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