南海ホークスをたずねてvol.3 大阪球場誕生のころ


南海ホークス最後の日は、
1988年10月5日
「優勝争いしてるのに
 すまなかったね」
杉浦監督。
この日のゲームは6−4で
南海が有終の美を飾っています。
開門は3時間も早められて、
こんなにお客さんが集まるなら、
身売りしなくていいはず。

誰もがそう思ったに違いないが、
この期に及ばないと集まらないもの。

近 110 001 010 I 4
南 100 020 12x I 6

首位西武を 0.5差で猛追する近鉄、
近鉄は手痛い1敗を喫した。
南海ホークスのセレモニー、
虎次郎は現地観戦でしたが、
古くからの近鉄ファンと一緒、
「大事な試合に南海最後と
 重なった」
と苦渋の表情、
ゲームセットとともに球場を後に。

手元に残る大阪球場のチケット、
1976年の阪神とのオープン戦。
高島屋のバラの広告とともに、
外野」のフォントも時代を伝える。

酔客の転落は風物詩だったと伝わるが、
酔った客は内野席にはいなかったとも。
実は近鉄パールス(開場~57年)、
大洋松竹ロビンス(53~54年)と
本拠地にしていたのです。
ナイター設備は
1951年7月18日の完成だったので、
甲子園に照明施設ができるまでの
1956年までは阪神主催の
ナイターもここで行われていた
のです。

工事が始まったのは1956年1月、
完成は同年9月12日という
突貫工事”だったようです。
大阪球場となる前までは、
大蔵省煙草専売局跡地
戦災の後始末も終わっていない
まさに瓦礫の山だったとか…
払い下げを求める南海電鉄は、
占領軍 GHQ経済科学局長
マーカット少将への陳情に
球団代表が足繁く通いつめた、
あの鶴岡監督まで出かけたそうです。

鶴岡監督がこう証言している。
「私、覚えているのは(略)、
 よし、球場をつくるのはよいことだ、
 球場の周辺には不良児がおらん、
 国民のためになることだ、
 力を貸そうといわれたことです

少将のこんな協力的姿勢は、
副官である 原田恒男 中尉の存在。
選抜優勝のごほうびで渡米した
広島商業の鶴岡少年“と試合をした
という記憶があるという奇縁。
原田副官は資料調達に奔走努力、
そんなお蔭もあって大阪球場は
誕生したのだそうです。

なぜ南海が作った球場が、
なぜ南海を冠せずに
 "大阪球場"としたのか
当時、入場料には高額の
税金が課せられていて、

浪花のチーム・南海ホークスが
勝って客が増えているのに、
入場にかかる税金は
阪神甲子園球場阪急西宮球場をもつ
兵庫県と西宮市を潤してました
1950年のシャウプ勧告による
税制が改革により料率は、
150%から100%に低減され、
配分先は府県のみとなりますが、
球場の名称が "南海" でない
そのことが生きたです…

大阪スタヂアムは、
府の協力をとりつけ、
1949年12月の府議会で、
年4500万円を限度とした
3ヶ年にわたる助成が可決されます。

2008年8月京セラドーム大阪
1日限りお目見えとなった、
当時の"大阪球場"の看板…
大阪スタヂアム相談役
田島甚併さんのは証言で結びます。
「普通なれば「南海」とか「難波」
 とかいうふうに考えられるが、
 大阪府、市民のための球場である、
 会社である、大阪スタヂアムとしよう、

 というところから、
 この社名に決まったわけです。
 このことは後日府から助成金を
 もらうのに大変役に立ったわけです。」

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