太子霊場めぐりvol.4 太子遺願之大寺 大安寺


太子遺願之大寺 大安寺
聖徳太子御遺跡霊場 第二十三番

がん封じの笹酒が御朱印にも…
古来中国では、陰暦五月十三日を
竹酔日、竹迷日、竹供養などと称し、
この日に竹を植えればよく育つと
いわれてきたそうです。
癌封じ夏祭りの六月二十三日には、
終日笹酒の振る舞いや癌封じ祈祷が
行われるのだそうです。

大安寺は、聖徳太子が平群郡額田部に
熊凝道場を創建したことが起源、
百済大寺、高市大寺、大官大寺と
名と所を変え、平城京に移り
"大安寺"となったとのこと。

南都七大寺のひとつに数えられ、
左京六条四坊から七条四坊に
またがる広大な寺域を占め、
900名あまりの僧が学ぶ
大伽藍を誇っていたそうです。

門前にある南大門跡
2001年の発掘調査により、
四天王像の塑像の一部が
発見されたのです。
奈良時代に流行した塑像は。
心木に縄を巻き付けて、
粘土で作られたものです。
本来ならば土に還ってしまう…
発見されたのは、ある史実の
裏付けでもあったのです。


大安寺は延喜11年(911)に
伝えられています火災、
大きな打撃となったのは
寛仁元年(1017)の火災です。
天平19年(747)の収録された
大安寺伽藍縁起并流記資財帳』、
「塙 四天王俊二具在南中
 右天平十四年歳次壬午寺奉造」。

塙 (しょう )」とは塑像を指し、
天平14年(742)に製作された
塑造の四天王像二具が「南中門」に
安置されていたという内容です。

『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』
そもそも百済大寺の造営は、
聖徳太子の遺言によるもので
あったとされていたとの記録、
"太子遺願之大寺"の由縁です。

舒明天皇がまだ田村皇子と呼ばれた頃、
聖徳太子の病が重くなったため、
推古天皇は皇子を見舞いに
遣わしたそうです。
太子は熊凝村に建てた精舎を、
"大寺"とし伝えてほしいと
皇子に遺言されたのだと。

杜に囲まれた先に"大安寺塔阯"
かつてあった巨大な七重塔、
東西に2つの塔が聳えていたとか。

天平神護2年(766)
落雷により東塔が焼失。
平安期の949年に西塔も落雷焼失…
壮大な当時最大規模の伽藍を
擁していたことが分かっています。

舒明天皇の御世には完成を
見なかったようでしたが、
その後、皇后の皇極天皇
引き継がれました。

百済大寺は長らく所在不明でしたが、
桜井市 吉備池で巨大寺跡が発掘、
"吉備池廃寺"が百済大寺とも…
その後も移転を繰り返して、
額安寺に落ち着いたとのこと。

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