その手は桑名の焼き蛤⑤ 薩摩の意地 宝暦治水

《末廣五十三次 桑名》月岡芳年 画

桑名は水運によって繁栄した町。
ただ「輪中」と呼ばれるように
土地より水面のほうが高い土地。
さらに…長良川の川底は、
木曽川の川底より1m程低いから、
尾張に比べて伊勢・美濃のほうが、
氾濫することが多かったそうです。
宝暦治水工事は1753年(宝暦3)からの、
正式には「三川分流工事」と呼ぶ
幕府が薩摩の島津藩に命じた
お手伝普請」。
桑名市北寺町に
ゆかりの墓所がありました。
曹洞宗の「海蔵寺」、
島津藩は巨額を費やし、
藩士にも50余人の犠牲者が出たとか。
これらの責任を取って、総奉行を勤めた 
平田 靭負(ゆきえ)は自刃したそうです。
九代将軍 家重の代のとき、
木曽三川の大治水工事を決意したのですが、
幕府としては「目の上のたんこぶ」的な
存在であった島津藩の財政疲弊をねらっての、
「お手伝普請」だったそうです。
薩摩からは三百里もへだてた地
まさに縁もゆかりもない、
大名の財力をただ削るための
ものだったのか??
本堂には平田靭負の
木像があったようです。
 (「海蔵寺」HPより転載)
「住みなれし里も今更名残にて
 立ちぞわづらふ美濃の大牧」
平田靭負 52歳の辞世の句です。

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