夕陽燦燦 坂のあるまち〜口縄坂
「契りあれば 難波の里に 宿り来て
波の入り日を 拝みつるかな」
夕陽ケ丘という地名の由来でもある、
鎌倉初期の歌人 藤原家隆の歌。
源氏の武士の台頭に世を儚み、出家して、
日想観を体得すべく「夕陽庵(せきようあん)」を結んだのが、
この「家隆塚(かりゅうづか)」の辺りとか。
かつて大阪湾は四天王寺付近まで入り込んでいて、
上町台地に立つと水平線に沈みゆく夕陽を
なにわの人たちは拝していたのだそうです。
西に海を持つ “なにわ” は夕日と共に
生きてきた街でもありました。
藤原家隆は元久2年(1205)に
『新古今和歌集』の撰者となり、
その名声は藤原定家と並ぶまでになった。
「家隆は現代の人麻呂だ。
和歌を学ぶなら彼を師とすべきである。」
と時の摂政に言わしめた歌人であったとか。
と時の摂政に言わしめた歌人であったとか。
人麻呂とは柿本人麻呂のこと。
松尾芭蕉は家隆の歌風に「わび、さび」の精神を、
見てとっていたらしく門弟とともに、
たびたび「夕陽ヶ丘」の地を訪れていたようです。
「浄春寺」に残る「反故塚(ほごづか)」。
芭蕉が没した後、
門弟たちが芭蕉が反故にした歌を焼き、
また遺髪を埋めて建立したものが山門横に。
伊能忠敬の師匠でもある天文学者の
麻田剛立(あさだ ごうりゅう)もここに眠っています。
上町台地の西側斜面に位置するこの辺は、
坂道がたくさんある。
「天王寺七坂」と呼ばれていて、
坂の下から道を眺めると、
起伏が蛇に似ていることか…
・・・下からの写真が残ってない(;_;)
「口縄坂は寒々と木が枯れて、
白い風が走つていた。
白い風が走つていた。
私は石段を降りて行きながら、
もうこの坂を登り降りすることも
当分あるまいと思つた。
当分あるまいと思つた。
青春の回想の甘さは終り、
新しい現実が私に向き直つて来たように思われた。
風は木の梢にはげしく突っかかっていた」
織田作之助の『木の都』の一節だという。