浪速の義侠・木津勘助をたずねて
浪速区大国町は慶長から元和にかけて活躍した
土木技術者である「木津勘助」によって、
木津川が開削して造られた「勘助島」がルーツ。
その勘助さんのゆかりの地がここかしこに。
土木技術者である「木津勘助」によって、
木津川が開削して造られた「勘助島」がルーツ。
その勘助さんのゆかりの地がここかしこに。
敷津松之宮・大国主神社境内にある「木津勘助銅像」。
本名は「中村勘助」といい、
幕府からも非常に重用されていたようです。
大坂が冷害で大飢饉となった寛永16年には、
本名は「中村勘助」といい、
幕府からも非常に重用されていたようです。
大坂が冷害で大飢饉となった寛永16年には、
私財を投げうって村人に分け与え、
それでも足らないということで、
命がけで大坂城の備蓄米の「お蔵破り」を決行して、
飢饉に苦しむ人々を救済したのだそうです。
像が建てられたのは1922年のこと。
当時はなかなか内務省の許可が下りずに、
首相者であった三代目南福なる人は苦労したらしい。
落成のした時に木津勘助にならって、
米250俵を近隣貧困者に施米供養したという。
ただ戦中の金属供出令で軍に供出、
1954年に再建された2代目。
木津勘助はその後「お蔵破り」の罪で、
それでも足らないということで、
命がけで大坂城の備蓄米の「お蔵破り」を決行して、
飢饉に苦しむ人々を救済したのだそうです。
像が建てられたのは1922年のこと。
当時はなかなか内務省の許可が下りずに、
首相者であった三代目南福なる人は苦労したらしい。
落成のした時に木津勘助にならって、
米250俵を近隣貧困者に施米供養したという。
ただ戦中の金属供出令で軍に供出、
1954年に再建された2代目。
木津勘助はその後「お蔵破り」の罪で、
葦島(現在の大正区)に流され
万治3年(1660年)に75歳で亡くなられたそうです。
墓所はほど近くの「唯専寺」にあります。
墓所はほど近くの「唯専寺」にあります。
妻は豪商・淀屋辰五郎の一人娘の「お駒」さんで、
墓参りの帰りに袱紗包を拾ったのが縁で結ばれる
というエピソードも有名とか…
こちらは「鴎町公園」に残る「勘助橋碑」。
「橋は無くとも 勘助橋は
残りますそへ いつまても」と刻まれている。
墓参りの帰りに袱紗包を拾ったのが縁で結ばれる
というエピソードも有名とか…
勘助頌詩碑 |
こちらは「鴎町公園」に残る「勘助橋碑」。
「橋は無くとも 勘助橋は
残りますそへ いつまても」と刻まれている。