チャンチー 去って五月晴れ!! リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 投稿者: 虎次郎 - 5月 20, 2006 5月20日(土)オリックス戦 金本の9回弾 そしてアンディ・シーツのサヨナラ弾!! 本当にチャンチー が去ってとっても爽快な一日となりました。チャンチー(CHANCHU)って、26日に関西で雨を降らせた台風1号のマカオ命名のニックネームで 真珠のことらしいです。FM802のガオガオちゃんって知ってますか? HIRO T'S MORNIG JAM の8時2分にぴったり合うと 「ガオガオ!!」っていうんです。 虎が機嫌がいいとガオガオちゃんもばっちしです。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
異界との出入り口《春日権現験記絵》 投稿者: 虎次郎 - 9月 16, 2021 『 春日権現験記絵 巻八 』の一場面 板葺きの屋根の軒先から、 腰に 小槌を差した赤鬼 が家の中を 逆さまにのぞき込む。 家の中では 男が激しく嘔吐 … ただ事ではないことは察しがつきます。 屋根の上の鬼は男に 取り憑こうとしている "疫病神" 。 《 化物昼寝鼾 》見越し入道ら 鳥居清長画 1784年 逆さまにのぞき込む異形 … 恐怖を呼ぶ一つのパターン。 現代の 都市伝説 にも、 車のフロ ントガラスの上から 逆さまの顔がすっと下りてくるとか… 妖怪の見越し入道 にも、 後ろからぐっと首を伸ばして 顔を逆さまに出してくる。 妖怪や幽霊が上の方から 逆さまに姿を現すというのは、 恐怖を感じるパターンとか。 ただ『春日権現験記絵』家人たちは、 鬼に気が付いていないと言うより、 見えていないのだと思います。 病人のいる家の外に 石が置かれ 、 祭壇を置いたあとも見えます。 小屋の中には既に命を引き取った とみられる女が横たわっていて、 《病草紙》 の形相ともみえます。 詞書にはこうある… 「弥生の朔日、河原に出たるに、 傍らなる車に、法師の紙を冠にて 博士だちをるを憎みて 祓戸の神の飾りの幣帛に 転も紛ふ 耳はさみかな」 「 耳はさみ 」とは、 林立した幣帛に紛れた紙冠、 もしくは、場にふさわしからざる 法師その人を指す とか… 呪術を終えて帰っていくのは 陰陽師 の" 声聞師 "※1か それとも僧形の" 宿曜師 "※2か。 さらに左に絵巻をたどると、 物々しい武士の一段。 詞書によると、館の主である 大舎人入道の夢にでてきた武士 。 人の目には見えない疫鬼、 夢の中でだけみることができる 武士の一団も疫病が可視化されたもの。 14世紀初頭の制作された時代、 "鬼と武士"に異形なる存在 に、 疫病の姿が表されているのです。※3 実は 武士の登場は巻二 にみえ… 残虐なシーンを描き出し、 武士が世を騒がし、 厄災を撒き散らす存在 として、 共有されていたことを 焼き付けさせていました。 巻六第一段には、 地獄の表現 がみられます。 実はこのシーンは、 春日明神のおはからいで 地獄行きを逃れた男。 春日明神の案内で " 地獄ツアー "の一幕なのです。 この男は 興... 続きを読む
清水寺をあるくvol.2 清水の舞台から… 投稿者: 虎次郎 - 12月 12, 2020 思い切った決断を意味する 「 清水の舞台から飛び降りる 」。 歌川芳梅《滑稽都名所 清水寺》 、 傘を両手に女性が宙を舞う… 非現実的な構図だけど、 実は作り事ではないらしい。 『 清水寺成就院日記 』によると、 江戸時代には234人が 飛び降りたという記録が残ります。 成就院は財務や対外交渉を 担当した塔頭 で、 業務日誌が残されていました。 境内の事故を町奉行に報告する 義務も担っていた、 年齢や性別、居住地、 動機などの詳細な記録です。 舞台が描かれていないが、 題は《 清水舞台より飛ぶ女 》。 鈴木春信 が1765年に描いたもの。 大きな番傘を手に… 江戸期の記録の死亡者は34人、 生存率は約85%。 多くの動機は 「自殺ではなかった」 のです。 自らの体を痛めて修行すると 往生できるという信仰 もあり、 清水寺で観音様に願い をかけた後、 舞台から身を投げたということ。 願いが叶うときは怪我もなく、 そして… たとえ命を落としても成仏できる と信じられていたようです。 当時は舞台の下に木々が多く茂り、 地面も軟らかな土だったことも、 生存率を支えていたのでしょう。 『成就院日記』にもどります。 「自分の病気の治癒」「母の眼病」 「暇がほしい」などが動機として 記されているようで、 自殺願望ではなく、 信仰心の篤さ が看て取れます。 《洛東清水寺》徳力富吉郎 1872年に 京都府が禁止令 を出す。 そして、舞台の周りには 防止用の竹矢来が組まれます。 十返舎一九の 『東海道中膝栗毛』 、 「観音さまに願をかけて舞台より 飛び降りる人がいるがけがをしない」 と弥次喜多に僧が解説… 式亭三馬の 『浮世風呂』 には 「清水の舞台から飛んだ と思うて十二文」と、 野菜を値切る場面。 江戸後期には 「清水の舞台」 の 言い回しは広く使われていました。 若者の比率の高さの話。 年齢が分かる170人のうち、 20歳以下が7割以上を占める。 1人で2回飛び降り、 2回とも助かった若い女性も… イマなら「キヨブタ」 と 呼ぶのかも知れません。 続きを読む
《聖徳太子絵伝》をみる① 絵殿と絵伝 投稿者: 虎次郎 - 9月 26, 2021 《摂津国四天王寺図》 四天王寺 江戸時代 18世紀 絵殿とは「絵堂」 ともいい、 聖徳太子絵殿を安置する堂のこと、 四天王寺では奈良時代にすでに存在、 『天王寺秘訣』 によると太子薨去 百三十年忌 752年(天平勝法4)に、 その記述をみることができます。 平安時代には聖霊院の南西隅、 現在の 南鐘堂 の位置 とか… 元和9年(1623)再建絵堂がみえます。 《聖徳太子絵伝》狩野山楽筆 四天王寺 江戸時代 1623年(元和元) 第4壁一部・第5壁一部 奈良時代の絵堂は960年に焼失、 11世紀前半に再興されたものの、 荒廃と戦火に見舞われる。 絵堂の絵伝として現存するのが、 1623年に 家康の命 で描かれた 狩野山楽の描いたもの。 山楽65歳の筆となるものですが、 二度にわたる制作となったもの、 前回は 豊臣秀吉のオーダー でした。 《聖徳太子絵伝》狩野山楽筆 四天王寺 第6壁一部 その後も絵堂には火災がつきまとう、 1801年(享和元)の落雷火災 、 1863年(文久3) 聖霊院灯明の不始末による失火、 聖霊院は1879年に復興されたが、 ようやく1979年になって、 絵堂が再建されましたが、 絵堂跡には 南鐘堂 が建立されており、 聖霊院北側での復興 となっています。 1769年(明和6) の 太子千百五十年御忌 を 契機として、絵堂絵伝の更新が図られ、 山楽本は取り外され 、 新しい絵伝がはめ込まれたようです。 1813年(文化10) に再建された 絵堂に納められたのが、 橘保春 (たちばのやすはる)によるもの。 《聖徳太子絵伝》 橘 保春 筆 四天王寺 1813年(文化10) 第一面・第二面 実は… "保春本"は襖絵形式なのに 引手がないのです。 そのワケは建具としての襖でなく、 観賞専用として制作だったのです。 六面の収まる大型の箱が用意され、 絵伝を「収納する」という意図 。 四天王寺絵堂絵伝の大きな特徴、 裏面に別主題の絵を描く ということ。 尊智本 には 九品往生人図 、 山楽本 は 二十八部衆 、 保春本 には 十六羅漢 といった具合。 《聖徳太子絵伝》 橘 保春 筆 四天王寺 第三面・第四面 " 収納される絵伝 " 保春本 の話に戻します。 享和火災の教訓もあって、 災害時には木箱―つ... 続きを読む
太閤秀吉を辿る vol.11 加藤清正と島津義弘の虎退治 投稿者: 虎次郎 - 2月 06, 2022 《朝鮮之役ニ清正猛虎ヲ撃》 橋本周延 1889年 豊臣秀吉 の子飼い衆の 加藤清正 、 幼名が "虎之介" とだったこともあり、 虎との縁は深く 豊臣秀吉の"虎"への執着 、 歴史のなかで繋がっていくというお話。 『絵本太閤記』「清正虎退治」 『絵本太閤記』 にはこうあります… 「清正が野営していた時、 一匹の虎が馬をくわえて 飛び出してきた。また、 虎は小姓をも食い殺されたため 、 清正は山中を狩り立てる。 大岩の上から大きな虎を 見つけた清正は、 自ら虎を仕留めんと、 家来たち百人ばかりが鉄砲で 撃とうとするのを押しとどめ、 襲い掛かる虎の喉を狙って 鉄砲を撃ちこむと、 さしもの虎も息絶えた。 」と。 《和藤内虎狩之図》歌川国芳 近松の浄瑠璃『 国性爺合戦 』の 主人公 和藤内 が雪の中、 虎退治する情景の三枚摺。 槍の先には大きな虎… 咥えられもう抵抗することのない 武者の身体から静けさが漂います 。 長烏帽子に蛇の目紋の 槍を持つ和藤内… 明国人の父と日本人の母の間に 日本で生まれた和藤内が、 父の祖国の復興のために渡った 唐土で虎退治を行う有名な場面。 加藤清正 であることを示すに十分… 幕府の出版に対する検閲により、 加藤清正としては描かずです。 加藤清正の虎退治は近代の引札にも… でも一番の疑問は 虎之介 と名乗る 加藤清正がなぜ虎退治 したのでしょう。 『絵本太閤記』「加藤虎之助の伝」 清正の秀吉の出会いについては、 裏付ける当時の史料が残されておらず、 後世の創作という可能性が高いのですが… 領地に関する確認できる史料においては、 清正が19歳の時に秀吉から 近江国120石を与えられるのが初見 。 『絵本太閤記』「豊臣家奥業勇士之像」 長浜城下で乱暴者を召し捕った褒美、 200万を加増されたとの『 清正記 』の 記述も後期の創作と思われるのです。 伝記などには 「虎之助」 とありますが、 秀吉が宛てた手紙には「虎介」 … 清正の20歳ころの 花押もその組み合わせ 、 正しくは" 虎之介 "なのだとされます。 《島津家朝鮮虎狩絵巻》 九州国立博物館 蔵 実は 虎退治のオリジナル は、 島津義弘 なのだとも伝わっています。 義弘は二度の朝鮮出兵に従軍、 大きな戦... 続きを読む
江戸のデリバリー⑨ 飴売り 投稿者: 虎次郎 - 4月 16, 2020 《飴売与太郎 市村羽左衛門》 歌川国明 大阪のおばちゃんは いつも飴を持っている。 でも…飴の消費量は、 多くないそうです。. 飴が身近になったのは、 江戸時代と言われています。 徳川吉宗 は 甘藷 の苗を、 琉球から取り寄せ、 諸藩に製糖技術の 伝播に努めたそうです。 『三十二番職人歌合』 《十四番 糖粽売 地黄煎売》 室町時代編纂の 『三十二番職人歌合』。 右は曲物に入った糖を、 二本の箸で粽に塗布 する 行商人の姿。 「地黄煎」 は薬とされた ジオウの煎汁に、 次第に飲みやすいよう、 水飴を加えて売られました。 《近世流行商人狂哥絵図》より お駒飴 近世流行商人狂哥絵図は、 江戸時代後期の読本作者、 曲亭馬琴 (きょくていばきん)が 江戸時代の行商人の姿と 売り声を記したもので、 1835年(天保6)に刊行。 飴売り以外にもいろいろと… 《近世流行商人狂哥絵図》より 飴こ買いな飴 「一文子や二文子じゃ 踊りこがねえ」と売り声、 一文や二文の飴を 買っても踊らないよ の意。 『飴売り土平伝』より 舳羅山人 著 、春信 画 土平飴売 は飴売の中でも よく知られた商人。 明和年間(1764-1772年)に 江戸の町に現われたとか… 奥州の出身、五十歳余とも。 《近世流行商人狂哥絵図》より 三吉飴 「あまい」 という味はの 探究心は 鑑真和上 が 土産物として持ち込んだ 砂糖 よりもさらに遡り、 たとえば 渋柿 は干すと 甘くなる… 『枕草子』 にある 甘葛 、 抽出し精製して甘味料に 使っていたのです。 《近世流行商人狂哥絵図》 より 粟の岩おこし売り 飴の文化は上方で発展、 お酒も同じですが、 江戸で “下りあめ“ と 大いに珍重されました。 大阪 攝津の「 平野あめ 」や 京都 東福寺門前の 菊一文字屋は有名でした。 『群蝶画英』より飴屋 英一蝶 筆 、 鄰松 画 一昔前まで 飴細工 というのが ありましたね。 飴が軟らかいうちに成型、 干支の動物などの細工、 ナメル飴からミセる飴 へ。 《飴売渦松》 一英斎芳艶 画 1861年 江戸の飴店は看板には、 かならず渦巻の絵、 行商の 飴売りも渦巻 … 扮する 市村羽左衛門 の 替紋は渦巻 だそうで、 飴屋の商標との符合が 粋な絵面でもあります。 《飴売与太郎 市村羽左衛門》 ... 続きを読む