みやこの国宝への旅⑦ 三十三間堂 二十八部衆像


国宝指定 1955.02.02
「木造 二十八部衆立像 婆藪仙人
「もくぞう にじゅうはちぶしゅう
 りゅうぞう ばすせんにん」と読む。

国宝指定 1955.02.02
「木造 二十八部衆立像 摩睺羅
「もくぞう にじゅうはちぶしゅう
 りゅうぞう まほうら」と読む。

なぜ 江頭 2:50
どっかの ロックギタリスト
チョイスになったのか(笑)
その訳を探りに京都国立博物館
真向かいの三十三間堂へ。

1,000体もの千手観音立像…
かなりの密集密接…千密であります。
正しくは蓮華王院(れんげおういん)、
蓮華王とは千手観音のこと。
内陣の柱間が33あることが、
「三十三間堂」と呼ばれる所以。

《天子摂関御影》のうち後白河院 
 藤原為信 筆 宮内庁書陵部蔵 1968年

東に面して伸びるその長さは、
南北120メートルに及びます。
かつてはインバウンドと修学旅行生で
ごった返していた三十三間堂も、
密を避けてゆったりと拝観。

ただ極楽往生を望む空間は、
後白河法皇がただひとりで祈りを
捧げるための空間だったのです。

迦楼羅王(かるらおう)

二十八部衆とは千手観音の眷属
眷属(けんぞく)とは、如来や菩薩に
つき従ういわば家来のような存在。
二十八部衆すべてが現存する寺院は、
そう多くはありませんが、
三十三間堂清水寺などは、
全てが揃っています。

三十三間堂では、
千手観音坐像の周りに
二十八部衆像のうち4体が、
そして…
1001体の千手観音立像の前に、
他の二十八部衆像と
風神・雷神像が並んでいます。

実はこの配置は
2018年夏に変更されたもので、
向かって左端の風神像が右に、
雷神像と入れ替えたほか、
千手観音坐像を取り囲む
二十八部衆の毘沙門天は、
梵天に換えられました。
創建当時に近づけられたとか

風神はヴァーユ、雷神はヴァルナ、
インド最古の聖典に登場する神。
風神は馬車で天を駆けて
悪神を追い払い、
富貴栄達を授ける神。
雷神は水神だといわれます。

国宝指定 1952.03.29
紙本金地著色 風神雷神図
「しほんこんじちゃくしょく
 ふうじんらいじんず」

款記も印章もそなわらないが、
俵屋宗達であると疑う人はいない
尾形光琳も、酒井抱一も、
"風神雷神図屏風"を描くことこそが、
琳派の系譜だといわれています。

三十三間堂の風神雷神がモデル、
宗達もおそらく見上げたのか
堂内の雷神前には見上げると、
堂の梁が雷光のようだと解説。

何度か実物を見ることがありましたが、
「京の国宝展」では8/24-9/5の展示
実物を見ることはままなりませんでした

冒頭の二十八部衆
婆藪仙人は腰の曲がった痩軀の老人で、
 たどたどしい歩行のさまを表すが、
 肢体の構成は見事にバランスが取れ、
 力強ささえ感じさせる。


 頭巾が取り外し可能な構造で、
 また髭は現状木製であるが
 当初は毛を植え付けていた
 痕跡があり、
 こうした現実再現への執着
 迫真性に富んだ造形に
 結びついていると捉えられる。」

摩睺羅は五目の怪奇な容貌だが、
 ゆるやかな身のこなしで
 琵琶を奏でる立ち姿は品位に富む

 その造形に前代の風が影響で、
 面貌は久寿元年(1154)の
 峰定寺毘沙門天像に近似する。
 湛慶は父 運慶の創造した
 剛健な彫刻様式を京都の王家・
 貴族たちの嗜好に叶う
 洗練されたものに変化させたと
 評されるが…」と。
いずれも「京の国宝展」図録より。

緊那羅王(きんならおう)

後白河法皇の院政は34年間、
当時の流行歌謡の"今様"を愛し、
歌謡集『梁塵秘抄』を編纂した人。
「仏は常にいませども
 現ならぬぞあわれなる
 人の音せぬ暁に
 ほのかに夢にみえたもう」

群像は火災時に搬出された
創建当初の造形を引き続き、
"院政風"として継承されたと…
法王の愛した今様をイマも、
夢の音曲として奏でている、
そんな "しらべ" を感じさせます。

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