太閤秀吉を辿る vol.5 聚楽第について


《聚楽第図》澤田鳳鳴
 1894年 大阪城天守閣蔵

8年間だけ京に存在した
秀吉の壮麗な邸宅"聚楽第"。
平安京大内裏旧址に建築された
「長生不老の楽しみを聚める」
意に由来しているそうです。

《豊臣秀次像》 地蔵院蔵

幻ともされた短命の聚楽第は、
完成の翌年の後陽成天皇行幸
そのために存在したとも…
行幸ののち、甥で養子になった
秀次に譲られたものの、
不和から1595念(文禄4)に
秀次は自害を申し付けられ、
その後も聚楽第は取り壊しに…

《聚楽第行幸図屏風》
 17世紀江戸期 堺市博物館蔵

短命ということもあり、
聚楽第を描いた屏風は4例のみ、
実際に聚楽第を描いたかは、
その根拠を見いだせないのです。

《聚楽第行幸図屏風》より

後陽成天皇の御鳳輦
いずれの行幸図屏風も
左隻に聚楽第を配し、
右隻側から左方向に御鳳輦の
行列が進むという構図が
採られていますが、
それぞれの屏風によって、
御鳳輦の位置が異なるのです。



《御所参内・聚楽第行幸図屏風》

2008年に上越市内の個人宅で発見、
その後上越市立歴史博物館に所蔵。
《御所参内・聚楽第行幸図屏風》では、
御所から出発したばかりの御鳳輦。

7月11日まで開催されていた
企画展「豊臣秀吉と堺」は、
2018年度に解体修理屏風後の
知見とともにした公開でした。

博物館の展示パネルにも、
堺と秀吉とには
距離感を感じましたが…

聚楽第行幸の一ヶ月前、
宣教師 オルガンティーノが
1588年3月3日付で
小豆島から書き送った書状に、
聚楽第と堺について触れた
以下のような一節があるとか…
すべての大身たちが、
 今や(関白)から都に壮大きわまる
 宮殿(聚楽亭)の造営を命ぜられて、
 (どれほど)異常なまでに苦悩したか、
 私は言うべき(言葉も)ありません。


《住吉祭礼図屏風》右隻
 17世紀江戸期 堺市博物館蔵

住吉大社の夏越祓えの祭りを描く。
住吉大社の神輿が堺宿院の御旅所に
渡御する神事行列が展開しています。

濠で守る堺の町がみえる…
堺の町と秀吉との関わりで、
一番目に挙げられるのが、
1586年(天正14)の
堺の濠の埋め立てといえます。
1930年に出された『堺市史』には、
「軍事上の堺がその価値を失ったと共に、
 それが住民の矜持を傷つけたことは
 如何ばかりであったらう」

誇り高い堺住民のイメージは、
歴史小説やドラマにも引き継がれ、
濠の埋め立ては自由都市・堺の
自由の終焉を象徴する出来事として
一般に浸透したとされています。

堺の発掘調査が進み、
町を囲む濠は、複数期に渡って
埋め立てられていたとのこと。

町の北の方には水はけの悪い
地域があることから、
排水のためにも濠は必要…
濠の用途は防衛だけでなく、
運搬、地所の境界、用排水など、
生活上の必須であったのです。

堺と聚楽第…
都の外れに造られた新宮殿、
堺の人たちを聚楽第の傍に
新たな住宅を建てるように
命じたのだそうです。

こちらは狩野探幽
自らの画業向上のために
スケッチし続けたものと伝わる
《探幽縮図》による聚楽第行幸の
屏風絵を書き写したもの。
行列には家臣たちの名前が
記されているのです。
おそらく原画の屏風絵にも
名前が書き込まれていたのでしょう。

御鳳輦は左隻の聚楽第に到着し、
東の外門をくぐって聚楽第の外郭へ
入ろうしているところがみえます。

堺市博の《聚楽第行幸図屏風》に
描かれる天守閣
屏風修理の知見によると、
「筆線が他の部分に比べて細かく
 不安定であり、入母屋屋根の
 瓦の線が放射状ではなく
 平行に引かれている。
 天守閣は補筆であろう。」

補修されたのか加筆されたのか…
いずれにしても聚楽第を見て描けた
時代のものではないというもの。

《聚楽第行幸図屏風》に描かれる西之丸…

聚楽第の周りには
秀吉の近臣が屋敷を構え、
千利休の屋敷も現在の晴明神社の
辺りにあったとされるなど、
堺や京都の富裕町人が聚楽第近くに
新宅の建造を要請されたそうです。

堺の経済力は、聚楽第をはじめ
数多くの普請を行った秀吉を
費用の面で支えたと考えられます。
そして社寺の普請も…

堺から費用が徴収された例、
信長と大坂本願寺の戦争に
巻き込まれて焼失した
四天王寺の戦後復興にも…
四天王寺太子堂のために、
堺代官の松井友閑に対して
堺の地子銭から500貫文分を
充てるように要求した
秀吉の書状の写が残ります。

「豊臣秀吉と堺」
さまざまな研究業績をたどると、
自由都市堺の終焉の鍵は、
豊臣秀吉その人に握られていたこと、
そんな企画展であったようです。

《豊臣秀吉像》
 17世紀江戸期 堺市博物館蔵

堺市博物館の学芸員の
宇野 千代子さんの解説で結びます。
「堺の歴史においては、
 慶長20年(1615)4月28日、
 大坂夏の陣の前哨戦で豊臣方が
 放った火で、中世から続いてきた
 都市・堺が全焼した時が、
 中世の完全な終わりと捉えられる。
 しかし秀吉の天下統一の過程で、
 大規模な普請によって堺の富は放出され、
 濠の埋め立てのいかんによらず
 秀吉の 新しい城下町・大坂の発展に伴い、
 堺の都市としての位置づけは曖昧に
 なっていったと思われる。

 すでに聚楽第行幸の頃には、
 堺は新しい時代の中にあった
 といえるのかもしれない。」

《聚楽第行幸図屏風》
 17世紀江戸期 堺市博物館蔵

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