鑑真像のリアリティの必然

天平の甍』という映画、
その映画のニッカウヰスキーの
タイアップ曲であったという
♪ 「」 というウタ




「目を閉じて 何も見えず
 哀しくて目を開ければ
 荒野に向かう道より
  他に見えるものはなし」

   で始まる。。
鑑真の境遇に想いをはせたのだろうか。

急転直下、、がらりと話題がかわるが、
日本で初めて火葬にふされたのは、
西暦700年 興福寺の宗派、
法相宗の祖である道昭である。
その後に女帝である持統天皇が
 飛鳥岡で火葬にされている。


当時の仏教はまだ定着されていなかった、
仏教という新しい教えを
国の新しい拠り所にしようと考えていた
聖武天皇の崩御は756年だが、
葬送役人の中には僧侶も
参加はしていなかったといいます。


その聖武天皇に法名を授けたのが
    鑑真その人であった。
ただ鑑真和上は
「死んだ後の肉体も、仏教の伝播に役立つ」
 と考えていたらしく。
即身成仏して「坐亡」「肉舎利」
 なることを望んでいたようです。
中国の『高僧伝』の「鑑真伝」の記述では、
鑑真は火葬されなかったことになっています。

鑑真和上の像には内側に白い粉が
  調査の結果、見つかっています。
灰骨を使っての図像とまへな行かないまでも、
鑑真は死後火葬され、
その遺骨が砕かれて像の体内に
 埋め込まれたのかも知れません。


鑑真は日本に渡航する前、
韶州の法泉寺という禅宗の寺で、
禅宗の第六祖、慧能(えのう)の
 肉身像を見たそうです。
鑑真和上像は肉身に着衣した状態で
まるごと漆をかけて作られた
ミイラでは、ありませんが、
リアリティを求めていたようです。
おそらく像のリアリティは生き写し、
手は木造ですが本体は乾漆造で、
特に頭部はデスマスクによるもの。
そう考えている学者もいるそうです。

























チベットの場合は、
遺体を塩漬けにしてミイラにし、
唐では遺体に麻布を張って
漆を縫って仕上げていたようです。

日本には死体は穢れの存在であると、
そのような死生観は当時は強く
ミイラにして祭ることは
朝廷から許されなかったのだと思います。

でもそのお蔭で日本には肖像彫刻に
リアリティが求められたとも言えます。




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